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遥かなる「チベット」に行ってみませんか

31 12月
2010年12月31日

私にとってチベットは、未知の国のイメージです。

どんな人たちが住んでいるのか、どんな生活が営まれているのか、ほとんど知りません。

そんなチベットについて、旅のプロフェッショナルである和田智子さんからお話を伺うことができました。

心を揺さぶるエピソードの数々、そのいくつかをここにご紹介します。

 

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和田さんがチベットを訪れようと思ったのは、映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を見たことがきっかけでした。

中でも世界遺産に登録されている「ポタラ宮」に対する思いはひとしおだったそうです。

「現実世界に存在する建物と言う感じがしないんです。その美しさ、圧倒的な存在感は、まるでお伽話と言うか、この世に本当に存在するのかと疑ったほどです。一度この目で確かめたいと思いました。」

 

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2010年8月、念願のチベットの地に降り立った和田さんは、まず迷うことなくラサの「ポタラ宮」に向かいました。

ポタラ宮はダライラマ5世によって建立された後、増設を繰り返し今の形となりました。

その建物の内部には歴代のダライラマのご遺体を収めた霊塔があります。

「これでもかというくらい、たくさんの「金」が使用されています。チベットの人々にとって、ダライラマがいかに大切な存在なのかを改めて知りました」

 

しかしこのポタラ宮は建物の劣化が著しく、この先見学者の入館が制限される可能性もあるのだとか。

そのことでは地元ラサの人々も頭を悩ませているそうです。

 

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和田さんが次に向かったのはギャンツェ。

ここには15世紀に創建されたパルコンチョーデ(白居寺)があります。

中でも有名なのは“大きな目”が描かれた「パルコン・チョルテン」。

その螺旋を上へと登る途中には70以上の小部屋があり、それぞれに壁画や仏像が安置されています。

さぞかし素晴らしい作品ばかりだろうと思い「全部見たんですか?」と聞いたところ

「いえいえ、よほど好きじゃなければとてもじゃないけど無理です」とのこと。

確かに“観賞”するには数日かかりそうですね。

 

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この白居寺内の多くの寺院は文化大革命の際に破壊されました。

近年になって中国政府により一部修復されたそうですが、悲しい歴史の傷跡がそれで消えるわけではありません。

上塗りされた現実が、新たな歴史となって残るだけです。

「パルコンの上から見下ろすギャンツェの街は見渡す限りの土色。とても豊かな街には見えません。それでもここは人口6万人の“チベット第3の都市”なんです」

複雑な思いを胸に見渡す街は、きっと特別な印象だったことでしょう。

 

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次なる目的地はチョモランマ。

前日に滞在していたツガツェの町から、悪路を5時間車に揺られベースキャンプに到着しました。

雲の多い夏場であるにもかかわらず、到着したその日の夕方にはチョモランマを拝むことが出来たと言う和田さん。

「ラッキーでした。厚い雲の合間から山が姿を現したとき、周りから大きな歓声が上がりました。チョモランマの姿は、それはそれは神々しく、世界中の人々がここを訪れる気持ちがわかったような気がします」

 

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しかし、和田さんの幸運はその時すでに兆候を現していた「高山病」の症状によって一転します。

長時間の悪路の移動と、急激な高度の変化がその原因でした。

「前日との高度差は1300メートル。体力の消耗も相まって、高山病対策も功を奏さなかったのです」

吐き気と酷い頭痛、食欲不振の上、眠れば呼吸量が減るため苦しくて目が覚めるという、なんとも絶望的な状況だったと言います。

それでも夜が明ける頃には症状は改善に向かいました。

「朝日を見る頃には、身なりを整えることも忘れ帰途についたのですが、その途中、昨日以上にはっきりとチョモランマの姿を見ることが出来たのです。体調の悪さも忘れるほど清々しい朝でした」

 

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この話を聞いて、私もチョモランマを臨みたくなりました。

ハードな旅ですが、素敵な体験となることは間違いありません。

皆さんも遥かなるチベットに出掛けてみませんか?

和田さんは次回、自転車で周る計画を立てているとのこと、これにはとてもかないませんが。

大連には「ロシアが造ったパリ」がある

15 12月
2010年12月15日

大連には「ロシアが造ったパリ」があります。

なんて言うとチョット大袈裟ですが、パリの街を倣って造ったと言うのは本当です。

場所は大連の中心部、円形の広場を中心に据え、そこから放射線状の街路が広がっています。

これがパリを模した設計だということです。

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1898年、東方への侵出を画策していたロシアは、その足がかりとしてここ大連を租借し、都市計画を進めていました。

そして街の中心部に円形の「ニコライフスカヤ広場」を置き、そこから10本の街路を放射線状に伸ばしました。

しかしパリの街を模した都市計画はここで頓挫、日露戦争の敗北により、大連の街は日本へと譲り渡されることとなります。

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日本はニコライフスカヤ広場を「大広場」を名付け、ロシアが造りかけの街路をそのまま利用し、そこに「日本の町」を造り上げました。

しかし第二次世界大戦の後、大連は中国に返還となり、「大広場」は「中山広場」へと名前を変えることとなります。

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混沌の中で生まれ、時代に翻弄されたこの広場も、今では大連市民にとっての憩いの場となっています。

緑をふんだんに取り入れ、広々とした広場はまるで「雑踏の中のオアシス」、早朝から人が集まり、夜遅くまでその姿が絶えることはありません。

広場の周りには、当時の日本によって造られた建造物がズラリと並んでいます。

旧大和ホテル、旧大連市役所、旧関東逓信局など、100年前と変わらぬ姿で今なお活躍するそれらの建物を一望できるのも、この「中山広場」なのです。

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しかし、生憎今は地下鉄工事の真っ最中。

広場はプレハブの塀でぐるりと囲まれ、市民が憩えるスペースも日々狭くなっています。

日中には工事の騒音や粉塵もひどく、残念ながらあまり素敵な憩いの場所とは言えなくなりました。

それでも大連市民はここに集います。

特に週末は工事が休みになるため、大勢の家族連れがやってきては鳩と戯れるなどして過ごしています。

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地下鉄開通予定は2012年。

市民の生活はぐんと便利になることでしょう。

が、その反面、辺りの景観が損なわれるのも時間の問題かもしれません。

日々変わり続ける大連で、発展と歴史がどのように共存して行くか、中山広場周辺はそのモデルケースとなりそうです。

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今からおよそ110年前にロシアが造ろうとした「パリに倣った街」は、旧ニコライフスカヤ広場周辺を除けば殆んど見当たりません。

ただ、日本が設計した広場周辺の建物が全て“洋風”であるのを見ると、当時の設計者達はロシアのアイデアに便乗し、街づくりを楽しんだようにも思えます。

そんなことを考えながら眺めると、中山広場周辺は歴史情緒たっぷりの、とても面白い場所なのです。

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