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月の女神発見30周年

25 5月
2008年5月25日

月の女神コヨルシャウキの大きな石彫が、電気会社の地下工事中に発見されたのが、1978年。
それから、30年というので、メキシコシティーのソカロ広場の一角にある大神殿(テンプロ マヨール)博物館で、記念展示との事で、見学に行った。

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いつもの展示と比べて、そう真新しいものがある訳でもなかったが、一応、特別説明が掲げられていた。

まあそれは兎も角、この博物館がある場所は30年前まで、たぶん崩れかけたような植民地時代の古い建物立っていた所である。

ところが、この月の女神コヨルシャウキの発見で、センセーションとなり、アステカ王国の遺跡の発掘が始まった。

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写真の説明 :発掘されたコヨルシャウキの石彫

このメキシコシティーの中心部ソカロ広場を中心としたセントロの地区は、植民地時代に作られた建物が多いのでコロニアル地区として保護地区で世界遺産でもある地区である。
だが、植民地以前は、大アステカ王国の都が、湖の島にあった場所であった事は全ての人の知るところである。

コロニアルの建物がそれ自体も歴史的建造物であるが故、それを壊してまで、その下にある可能性は大でも、アステカ王国時代の遺跡を発掘する事が、それまでは、行われなかった訳である。

だが、コヨルシャウキの発見は、この場所がアステカ王国の最も重要なピラミッドが立っていたその場所であるというのが、
保障されたも同様である故に、コロニアルの建物を壊してでも、その発掘をすべきだという事になったのであろう。

コルテスのアステカ王国征服によって、全てのアステカ時代の建造物は、破壊され、そのアステカ時代の建造物を土台として利用して、その上にコロニアルの建造物が立てられた。

そこで、発掘された大神殿のピラミッドは、まさに、土台部分だけというものであるが、メソアメリカ文化において、
ピラミッドは常に古いピラミッドを壊さずそれを埋めて、その上に次ぎの新しいもっと大きなピラミッドを作ってゆくという方式であるゆえに、
古いピラミッドの層や、また、新しいピラミッドを建設するに当たって、多くの奉納物や生贄を埋めたりするという習慣で、ピラミッドは征服によって完全破壊されたが、
その場所に多くの過去の栄光が埋まっていたわけである。

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写真の説明 :古いピラミッドが重なっている。7つのピラミッドが上へ上へと作られていった。

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写真の説明 : 二層目のピラミッド。完全な形で発掘された。彩色された壁なども分かる。

前の記事「アステカ マヤ インカ展 in Japan」で、ちょっと、テンプロ マヨール遺跡からの発掘物の写真も載せたが、今回は、コヨルシャウキついて。

コヨルシャウキの石彫は、アステカ3大発掘物のひとつと言われている。

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写真の説明 :三大発掘物の大きさ

その3大発掘物とは、①アステカカレンダーと言われる国立人類学博物館のアステカ室のど真ん中にある石彫。
②テンプロ マヨール博物館のど真ん中にあるこのコヨルシャウキ像
③そして、まだ未公開であるが、2006年10月にテンプロ マヨール遺跡の前の場所に発見された大地の女神の石彫である。
大地の女神の公開が楽しみであるが。

コヨルシャウキ 月の女神は、死んでいるのある。
コヨルシャウキの月の女神とアステカの最高神で大神殿双子の神殿の右側の神殿に祭られた太陽神の戦いの神話。

蛇の丘(ヨアテペック)で、神々の母、大地母神、生と死の女神 コアトリクエ(蛇のスカートをはいた女神)が掃除をしていたところ、
天から、羽の生えた球が落ちてきた、彼女は、それを大事に懐に仕舞ったところ、それが原因で妊娠してしまう。

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写真の説明 : 国立人類学博物館にあるコアトリクエの像
人はグロテスクと思うか?美しい芸術品と思うか?

それを知った娘の月の女神と400人の南方人という星の兄弟達が、不義の母を許せない、そんな母は殺してしまおうと、母殺しにやってくる。

母が恐怖におののいていると、お腹から太陽神であるウイチルポトリーが剣と蛇の松明を持って生まれ出て、
母に心配しないでもいいと慰め、攻めてきた兄弟の南方人達と月の女神の姉をやっつけ殺してしまった。

特に月の女神は、首を切りそして死体を蛇の丘から転げ落とした。それで、死体の手足もバラバラになり、その死体からは、血が滴り落ちた。

こうして、太陽神が生まれ、姉兄に勝ち、最高神となり、アステカの神殿に祭られた。

月の女神は、太陽神であるウイチルポトリーが祭られている側(もう一方は雨神トラロックの神殿)のピラミッドの下の位置に置かれていた。

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写真の説明 : 大神殿ピラミッドの模型 右が太陽神ウイチルポトリー 左が雨の神の神殿。
太陽神の神殿の下の位置に敗者の月の女神の石彫が置かれていた。

それは、このピラミッドを蛇の丘で起こった戦いにたとえ、勝者が上に祭られているのに対して、敗者は
殺され、丘から転げ落とされたという神話により、その位置に置かれていた訳である。

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写真の説明 : 国立人類学博物館にある月の女神 コヨルシャウキの頭。
死んで、目を閉じている。

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写真の説明 : コヨルシャウキの石彫には色が塗られていたというのが分かっている。
その復元図。

メキシコの古代文明において、常に、物事の相反するものは戦い続けているという考えがあった。
昼と夜も、明と暗も、生と死も、そして太陽と月も。

メキシコを旅行する時、メキシコ国立人類学博物館へは訪れる人が多いと思うけど、もうちょっとだけ時間の余裕があったら、
是非、テンプロ マヨール博物館も訪れてみてください。

サボテン山のサボテン植物園

17 5月
2008年5月17日

サボテン山の中にサボテン植物園がある。 うちのダンナは皮肉屋だから、さっそく言う。 「サボテン植物園って、サボテン山に看板と歩道作っただけで、植物園だ。」 まあ、そう言えば、それは事実だが。。。。。

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写真の説明:植物園の中 下に見える建物が小さな博物館

街道に立てられた看板を見てから、舗装されてない道を車でだいぶ入っていくと小さな小屋があり、小さなお店と小さな博物館とトイレの施設があった。 入場料とガイド料を払ってくれと。ガイドはボランティアみたいなものだから、チップでとの事。

それにしても、一日何人の観光客があるのだろうか? 他の訪問者には一人も会わなかったが。。。。

訪問者は、いつが多いの?とガイドに聞いたら、雨季の頃、学生が来るとの事。 学生って、植物学でも学んでいる学生達かな?

街道をサボテンを眺めて来たとき、柱サボテンが沢山ある所と、丸サボテンが多い所とあったけど。 また、その柱サボテンがめったやたらと多くなる前は、ウチワサボテンも結構生えているなどなど、 ちょっと地区で、特に多いものが違うっていうのは、なんとなく分かったが、素人には同じに見えるサボテンでもいろいろ種類があるらしい。 多くある柱サボテンでも、いろんな種類があるとガイドが教えてくれた。

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写真の説明 この柱サボテン何mあるのでしょうか?
ガイドの話では20mくらいまで成長すると。

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写真の説明 これはウチワサボテン。このサボテンの葉はメキシコでは食料、実はフルーツウチワサボテンも種類がいろいろあるらしい。

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写真の説明 この二つの柱サボテンは違うものらしい。
実もなっている。

そして、大事なのは、種類によっては、サボテン泥棒によって、絶滅危惧種もあると。 それで、このサボテン山にそう書かれた看板があったが、ここは保護区になっているらしい。 だが、泥棒の見張りなんて、出来そうにないよね。この何時間も走れども走れどものサボテン山。

サボテンって、あまり水がなくっても生きていられるから、砂漠に生えるんだろうけど、成長がゆっくり。

植物園にあった丸サボテン、これは500年くらいのものと。

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写真の説明 丸サボテン、メキシコではビスナガというがお菓子にもする。 だが、この種で絶滅危惧のものが多いらしい。 これは500年ものとか。

1000年ものもあるよ。との事。

それにしても、何百年もののサボテン盗んで、売る人がいて、また、買う人もいて。 買った人も、何年もののサボテンだ!と喜んで、それ自分の庭に植えても、このサボテンが好む環境と違うから、枯らしてしまうだろうにねえ。

サボテン山の小さな村に暮らす人々は、サボテンからサボテンの葉やフルーツやらサボテンの木材やらいろいろ利用する。 うちのダンナは、サボテン植物園のお店で、サボテンの種類で、mala mujer(悪い女という意味)とい名のサボテンから作った薬を姑のために買った。 これは、毒をもつサボテンだが、神経痛やリュウマチの薬になると。

サボテン山に住む鳥は、サボテンに巣をつくる。

サボテンしか生えないサボテンの荒野、そこにも、人が住み、動物も住み、サボテンと生きている。

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写真の説明 : サボテンが枯れると、土地の人はそれを建材として利用するらしい。

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写真の説明 :枯れたう柱サボテンのベンチである。
座ってみたが、固く壊れそうになく、座りごこちもまあまあでした。

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写真の説明 :サボテンではないが、乾燥した地区に生える植物         メキシコでは、属名 象の足と言う。ガイドの話では、この木は霊気を持っている木で、この木の下に行くと涼しく、それを感じると。         下に立ってごらん!霊気を感じるだろう!とガイドがしきりと言った。         木の下はどんな木でも涼しいと思うが。 また、彼の話によると、このもっと大きな木に、日本の天皇がその父の灰を持ってきてその木の周りに撒いたと。その話は、本当なのかどうか?私が日本人なので、そんな話をしたのかどうかは不明?知る人がいたら教えて欲しい。         まあ、そんな話は兎も角、この木も相当の樹齢の木らしい。

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写真の説明 :丸サボテンになっているフルーツ。 パイナップルのような形なので、ピニャというそうだ。もちろん食べるそうだ、小さいけど。

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写真の説明:ビスナガ 丸サボテンいろいろ。

今、サボテンの荒野は、大昔は海だった。(2.1億年以上も昔の海の塩?!)

12 5月
2008年5月12日

先回、化石の村について書いたが、その化石の村へたどり着く手前の村は、塩田の村である。サポティトラン デ サリーナス。
やはり、周りはサボテンの山ばかりの地で、ここは、一応村を通り抜ける道は舗装されているが、
車だと、あっと言う間に村を抜けてしまう。そんな小さな村であるが、その名の通り、サリーナス 塩の産地である。

ここは、先スペイン期の時代からの塩の産地であった。
標高、1600m以上の高地であるが、山に段々畑風に塩田が作られている。
昔から塩の産地として、そして、今なお同じように塩を作り続けているのである。

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何故、こんな海とは遠い山の高地に塩田があるのか?
そう、ここは、大昔海だったのだ。

サボテン植物園の人の話などから、話をまとめると、
海であったこの地の地下は、塩をいっぱい含んだ岩塩の層がある。
それが、ピコ デ オリサバ (メキシコ最高峰の山5747m)山が、もたらす雪解け水や山の水が、地下に染み込み、
その水で、地下の塩を含んだ岩の塩が溶け出し、それが、地下水として井戸に溜まる。
だから、この井戸水は濃い塩分を含んでいる。

村の人々は、この井戸の水をポンプでくみ上げ、塩田に注ぎ、乾季の太陽に晒すと塩ができると言う訳だ。

話をしてくれた人に「じゃあ、ここの塩は1億年以上も昔の海の塩ですね?」と言ったら。
「そう言えば、そうだね。」との事。

村で、私はその億年前の海の塩を少々買った。ちょっと普通の塩より苦味がある気がしたが。
村の塩田農家のおばちゃんが、ポリタンクに入っていた塩を袋に入れてくれた。
「何に使うの?」と言うので、「お料理に使うつもりだけど」と言うと、
「お豆を煮るのに使うとおいしいよ。野菜を茹でると、色がとってもいい色に茹るよ。だけど、入れ過ぎないようにね。」と教えてくれた。

普通この辺では、何に使うの?と聞いたら、家畜用とお料理用との事。

つまり、濁ったあまり精錬されてないのは家畜用で、精錬されたのは人間用って事らしい。

塩の井戸水を水槽に貯め、その上の層と下の層での違いで塩の質が違うものができると言う事らしい。

ところで、話は別だが、メキシコはバッハ カルフォニア半島のゲレロ ネグロという場所が、ものすごい塩の産地である。
しかも、日本の企業がこの生産にかかわっている。
乾燥した地で、塩の濃い海水からドンドン塩が多量に生産できると言う事らしい。
そして、日本のこの企業、このメキシコの地で多いに儲かってるらしい。

バッハ カルフォニア半島もサボテンの生える乾燥した半砂漠の地であるが、
プエブラ州のこの標高1600mのサボテンの山の小さな村の生業は、一億年昔の海の塩を、小さな段々畑で生産する事である。

日本とメキシコに関わった芸術家たち(その2 メキシコの芸術性に学んだ日本人のアーチスト達)

05 5月
2008年5月5日

芸術の国メキシコにやって来た何人かの日本人アーチスト。 北川民次は、メキシコにアメリカから流れてやって来たと、メキシコに到着する前に泥棒にあって、無一文で。 そして、メキシコで、美術学校で学ぶ、15年間住み、特にタスコの町で、絵学校の校長として、現地の メキシコの子供達や、大人に絵を教えたと。 彼の芸術教育は特殊であったようだが、その功績は、大きかったようだ。 彼が、メキシコに与えたものも多かっただろうが、きっと彼自身がメキシコから学んだものもきっと大きかったと思う。

一人の人間の人間性もその生い立ちや環境によって作られるだろうように、芸術もきっと常にその場所から、影響を受け、生まれ作られてゆくだろうから。

私は一冊の北川民次の本を持っている。

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それはいただいたものである、大分前に、観光のお客様に、タスコの町を案内していた時、北川民次の所縁の地である事をお話したら、 民次の故郷、静岡県からいらっしゃった彼女は、「北川民次は私の親戚です。」とおっしゃった。 彼女の家の出の人が民次の義母であり、また民次の実姉が彼女の家の養女として来たと。 なんかとっても嬉しい思いがしたが、その後、彼女から、この本をいただいた。 ありがとうございます。 ふっと、メキシコの地で、民次の話が出たところで、民次に繋がる人に会えたとは、縁は、繋がっているんだなあと思った。

岡本太郎は、メキシコに来て、壁画を描いた。 それは、メキシコオリンピックの年1968年、今は世界貿易センターの建物になっているが、当時メキシコホテルとして建設していたホテルのロビー用に描かれた絵である。 「明日の神話」である。 これは、このメキシコホテルが完成せず、建物も売られたという事もあって、長いこと行方不明になっていたというものであるが、近年見つかり、日本へ持っていかれた。 この絵は、原爆を描き、未来へのメッセージだと。

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写真の説明  この写真は、友人おおむら氏からお借りした大変貴重な写真です。  これは、まさに、岡本太郎によって絵が描かれたその当時、完成しなかったホテルのロビーに飾られていた時の写真です。

さて、岡本太郎の作品の中でももっとも大きな作品だというこの壁画、やっぱりメキシコで描かれた壁画であると思うのは私だけではないだろう。 壁画は皆、ダイナミックだが、まさに、これはメキシコの壁画である。 岡本太郎は、この絵を描くためにメキシコに来てほんの短い期間だけ滞在したであったろうが、彼も、きっとメキシコに学んだものが多かったと思う。

メキシコを知る人が、岡本太郎の大阪万博の太陽の塔の彫刻を見たら、まさにメキシコだと思うだろう。

イサム野口、彼もメキシコに滞在したのはほんの短い期間であったろう。 彼は、メキシコシティーの中心地にある市場の2階に立体壁画を描いている。

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写真の説明  イサム野口の壁画のある市場、この建物の2階の部屋にある。  市場は毎日開いているが、彼の壁画のある部屋は週末は閉められている。

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写真の説明    イサム野口の立体壁画

この市場の壁には、当時の先鋭若手画家達が多くの壁画を描いたにもかかわらず、その多くは、野菜や肉や日用雑貨品と人の雑踏の中に埋もれたように 風化して、傷つき、その壁画を見に訪れる人もめったにいない。 幸い、野口の壁画は市場の2階にあるので、市場の雑踏に中にある他の壁画に比べて、破損が少ないようであるが。

岡本太郎の壁画が、それを本当に探し求めていた人により発見され、日本の本当にそれを見たいと思う人の元へ行ったように、 ディエゴ リベラのソ連に贈って、行方不明になっていた壁画が、それを本当に探し求めていたメキシコの人によって、ロシアの博物館の倉庫から発見されて、メキシコへ やってきたように、 野口のこの壁画も、市場の雑踏の中で、それを見に訪れる人もない窓ガラスの割れたあの建物から、本当にそれを探し求める人によって発見され救出されて欲しいものだと私は思う。

メキシコで、イサム野口は、メキシコの女流画家、フリーダ カーロとの恋愛でも話題にされるが、観光のお客さんにそんな話をしたら、 「えっ!そうなんだ。納得!」「かれ、メキシコに来たことがあったんだ、ティオティワカンの太陽のピラミッドと月のピラミッドをみて、このイメージがどうしても、彼の作った公園にそっくりなんだと思ったんですよ。」と北海道からいらっしゃったお客様が、おっしゃる。

その公園とは、札幌モエレ沼公園だと。 行ったことないけど、一度訪れてみたいものです。

ところで、日本の若い芸術家達もメキシコの地で、芸術を学び、また、活躍する人も結構いると思う。 私の知り合いで、娘の友人である人も、メキシコで活躍の場を持ち、頑張っている。 「芸術だけでは食べてゆけないんです。」「作るのに、結構金もかかるし。。。。」と。 「日本に一度、帰ったんですが、またメキシコに来ました。」と。

彼女は、アルバイトをしながら、芸術活動をする。 アートという私には、程遠いもの、だが、憧れを持つものに夢中で取り組んでいる彼女を羨望で見つつ、 もちろん今も素晴らしいアーチストであるが、きっと、メキシコの地が、彼女を素晴らしいアーチストに育ててゆくのだろうなあと思う。 メキシコは、きっと芸術が日常の中に息づき、芸術にたいして、懐が大きい国なのではないだろうか?

 

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