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ノーカーデイ

29 7月
2008年7月29日

メキシコは自動車社会である。 特にメキシコシティーなど大都会では、車が多く、車が社会のステータスになるほど、車が重要であるようだ。

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メキシコシティーでは、その車が公害問題の最強の敵という事で灰色の空を青空にするためにというので、 走る車を減らそうと、1989年からノーカーディ方式を取り入れた。

週の何曜日がノーカーデイになるかは、その車のナンバープレートの最後の数字で決まる。それが色のステッカーで表される たとえば。9、0は青で、金曜日がノーカーデイ。 赤、黄色、ピンク、青、緑である。

最初は、全ての車がつまり古かろうが新しかろうが、平日一日運転できないという方式であった。 そう、車の5分の1がその日運転できないというので、空が少しは澄んだか?

と思ったのは始めた当初だけ。 車社会であるメキシコの車を持てる階級の人々(つまり車が買える階級の人々)は、一日車が動かせない事は、不都合というので、 車をもう一台買おうという事になったようだ。(車会社には嬉しい結果!?) それで、車の総数は増える結果になった。

そのうちに1997年から新車は、排気ガスを出さないいい車、古いほど排気ガスを出す車という事で、車を0、1、2ランク分け。 0は新車。1は、まあまあ、2は、もっとも排気ガスを出す古い車。

メキシコシティーの車は、すべて、半年に一回、排気ガス規制検査を受けないといけない。 これに合格しないと、車を動かす事ができない。 そして、0、1、2のランクが決められる。そして、車にそのステッカーが貼られる。

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写真の説明 :半年毎の排気ガス規制検査に合格すると、0.1.2のランクが示されたステッカーが張られるので、そのステッカーがべたべた。

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0のランクの車は、毎日運転してもよろしい。1,2のランク車は、週一度運転できません。 そして、なお、1、2、のランク車は、排気汚染状態悪の日は、その日その車が運転できる日であっても、土曜日曜であっても、突如運転できません日になるという。 特に2ランクの車は、その割合が多い。

それで、人々は競って、借金してでも、新車に乗り換えるという事になった。(車会社には嬉しい結果!?) 確かにその結果として、メキシコシティーをそれまで大手を振って走っていた中古のボンボロ車は姿を消した。

確かに、何十年前かに比べたら公害状態はよくなっている気がする。 だが、ますます車は多いし、まだまだ、公害もあるというので、メキシコ市政府は、この7月から、土曜日もノーカーデイにするぞ!と。

でもでもですよ!このノーカーディにひっかかるのは、いつだって、1、2ランクの車です。 0ランクの新車はいいのです、いつだって運転できるのです。

あー、新車が買える金持ちになりたい!

 

世界遺跡の16世紀初めの修道院跡

19 7月
2008年7月19日

メキシコの世界遺産の中に「ポポカテペトル山麓の16世紀初頭の14の修道院跡」というのがある。

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写真の説明:ポポカテペトル山 5400mのメキシコで2番目に高い山 活火山である
この山麓はポポカテペトルの山の恵みで、豊かな土地で、昔からの農業地帯である。

メキシコのアステカ王国がエルナン コルテスに征服された時から、スペインからのカトリックの布教をする修道士達が、
彼らのとっての新天地メキシコにどっとやってきた。

なんせ彼らは、邪教を持つ先住民を正当なカトリックに改宗しなければという大名目をもってメキシコにやって来たわけだ。
そしてその目的のために、先住民のいる地には、どんな所であろうと入り込み、瞬く間に立派な教会・修道院をバンバン建設していった。

だから、メキシコのあらゆる地のあらゆる村にも古い教会修道院跡がある。

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写真の説明:トラヤコパンの教会修道院跡
ここの修道院跡は博物館になっている。そこには、スペイン人のミイラも展示されていた。

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写真の説明:この日は、タラヤコパンの教会の祭りであった。村祭りには、必ず酒があり、人々はだいぶ出来上がっている風であった。

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写真の説明:トトラパンの教会修道院跡

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写真の説明:トトラパンの修道院跡の中庭

植民地時代の教会の特権的力、財力は、絶大なものであった。
その修道院活動、また教会の特権階級的政治力は、植民地時代、そしてなお独立後も続いていた。

そして、メキシコ歴代大統領の中でもっとも尊敬されているベニート ファーレス時代の1847年の改革憲法による政治によって、
修道院活動は全面的に禁止された。
隠れて修道生活を続けていた修道女の修道院(プエブラ市のサンタ モニカ修道院)は、その後70年も続いたなんてのもあるが。

改革政治によって、接収された修道院の多くはその後、多くは放置された、また、その後には、博物館などになっている。

教会の部分は、もちろんその後も使われ続け、いまなお、村の中心の最も重要な教会として使われている。

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写真の説明:アトラトラワカンの教会修道院跡

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写真の説明:アトラトラワカンの教会修道院跡
この時代の特徴である野外礼拝堂の壁と天井の壁画、
ここだけ無く多くの修道院には壁天井が総面壁画が描かれていたようだ。
ここはアグスティン派の修道院跡で、その派の系統図のようなものが描かれている。

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写真の説明:アトラトラワカンの教会の正面の穀物で描かれた絵
この地方では、この教会だけでなく他の教会なども、この穀物で毎年絵を描くらしい。

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写真の説明:アトラトラワカンの教会の正面の穀物で描かれた絵 部分

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写真の説明:アトラトラワカンの教会の正面の穀物で描かれた絵 部分 色んな穀物が使われている。

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写真の説明:アトラトラワカンの教会修道院跡
境内の四方の隅に、posas礼拝堂と言う小さな建物があるのがやはりこの時代の特徴である。
これは、巡礼者が、4つの礼拝堂でお祈りをして回ってゆくというもの。
多くの修道院跡ではもう、無くなっている。

世界遺産に指定された修道院跡というのは選ばれてという事になるのだろうが、メキシコの何処に行っても、
それに匹敵する教会修道院跡というのは、あっちこっとにあると言えると思う。

去年、日本大使館の後援で、メキシコでメキシコの文化、遺跡研究、教会などの文化研究に携わる若い日本の研究家達が、
無料公演会をしてくれた。

その中で、植民地時代の教会修道院芸術についてのお話もあった。
興味深く公演を聴いたが、教会芸術を理解するには、やはり、カトリックなどのキリスト教をもっと理解しないと。。。。。
という思いがした。

まあ、それは兎も角として。
この14の修道院跡のうち、クエルナバカなどのカテドラル教会になっている所は、結構、日本からの観光の人も違う意味もあって
(教会の壁画に 日本の長崎の26聖人の殉教の絵がある。)か?訪ねる人も多いが、
その他、テポソトランの修道院跡も、テポソトラン自体が今観光地になっている事もあって、外国の観光客も多く訪ねるようだが、
その他の修道院跡は、世界遺産であるにもかかわらず、あまり訪れないようだ。

実は、私も行った事がない修道院跡がほとんどで、「教会芸術を理解する」に刺激された事もあって、出かけてみた。

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写真の説明:ジェカピスツラの教会修道院跡
大概境内の庭に、十字架がある。
ここの十字架の下の部分に矢に刺された心臓が描かれている。アグスティン派のシンボルでもあるらしい。
カトリックの教会の絵や彫刻などのシンボルに心臓が描かれているをよく見かけるが、これだけみたら、まるで
アステカ時代の生贄の心臓を想像してしまうのは私だけか?
宗教の何処かに共通する事があるのかも?それとも、カトリックがアステカの宗教に学んだ?な~んて?

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写真の説明:ジェカピスツラの教会修道院跡
修道院跡の中庭の回廊の絵

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写真の説明:ジェカピストラの教会、教会は信者の信仰の場所。
メキシコのほとんどの人は、植民地時代押し付けられた宗教であるが、今も熱心な信者である。

国も国立人類学歴史研究所も、金、予算がないというのか、あまり保護にお金をかけていないようで、
修道院跡が、倉庫状態、放置状態の所も多かった。
中には、人類学歴史研究所の人が修道院の壁画の修復をしていたところがあって、その人に
別の修道院も修復するのか?と聞いたら、金次第との事だった。

まあ、そういう事だろうね。なんせ金だ!世界遺産保護も。

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写真の説明:テテラ デ ボルカンの修道院跡
回廊の壁画の修復をしていた

無料メガコンサート

14 7月
2008年7月14日

メキシコシティーのソカロ広場というのはいろんなイベントが行われる所である。
週末の夜などには、よく無料コンサートも行われる。
企業などが後援している、つまりお金を出しているのだろうが。広告も兼ねて。
結構有名な人気歌手も出演で、いつも大盛況らしい。

メキシコは、金のない人が多いが、金がなくても文化に接しなさいという政府の奨励か?
金がなくっても、その気になれば、文化に接する方法があるというわけだ。
国の国立人類学歴史研究所が仕切っている遺跡、博物館関係は、日曜日は全てのメキシコ人に対して無料である。
メキシコの子供、学生、教師、老人に関しては、日曜日だけでなく常に無料である。
数年前までは、日曜日祭日はすべての人、つまり外国人に対しても無料であったが、今は外国人からは金を取る。
もちろん、教会などは拝観料など取らない。
日本に帰った時、日本を観光するのに、拝観料や入場料がめったやたらと高くってうんざりした記憶が。。。。。

ソカロ広場の無料コンサートは、いつも、週末の夜なので、夜遅いのは、気後れがして、見に行った事がなかった。

昼間にロックメガコンサートがあるというので、行ってみた。
さすが、ロックコンサートである故、若者が対象という感じ。
集まった人は、10代20代の若者ばかり。

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このコンサートは、メキシコ市政府の「若者よ!高校へ行きなさい!」宣伝コンサートか?人集めか?
なんか、そう書いてある無料Tシャツをくれた。

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タダの上、Tシャツのプレゼントはちょっと嬉しいけど、サイズがワンサイズで、超LLサイズ。
大は小を兼ねるっていうつもりだろうが。。。。。
こりゃあ、パジャマしか使いようがないねえ。。。。。私には。

ところで、コンサート会場の柵の中に入るのには、荷物検査があって、

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写真の説明 :荷物検査に並ぶ若者達

水のペトルボトルは駄目と言う。
「えー!この暑いのに、水取り上げられるの?」って言ったら、
ビニール袋に、ペトルボトルの水をどぼどぼと入れてくれた。まるで、金魚のいない金魚釣りのビニール袋。
ジュースや炭酸飲料水をビニール袋に入れてくれる方式は、よくあるけど、これを飲むには、ストローが必要だよ!
ストローなくして、どうやって飲むの?でもストローはなかった。
結局、その水は飲めなかった。

傘も駄目だと言う。「冗談じゃあないよ!今、雨季だよ、傘持ち歩かないでどうするのよ!」と言ったら許してくれた。
メキシコは、物事がアバウトなのは、いい事なのか悪い事なのか?

若者はエキサイトすると、興奮して何をするかわからない、傘もペトルボトルも危険な凶器になると言うのが理由らしい。

若者ばかり!の中に、外国人のおばちゃんがカメラもってうろうろ→私
年寄の冷や水とはどういうこちゃあ!?

こういう事なのだ!
メキシコの道路というのは、結構でこぼこなんだ。
観光客の方を案内する時、私より年配の方の時は、私はいつでも、「足元に気をつけてくださいね!」を連発している気がするが、
今回は自分が、足元に注意が足らなく、ステーンと見事に転んでしまった。
だが、私の頭には、その瞬間に「カメラ!」があったらしい。
手に持っていたカメラを守る形で、つまり腕をまともに地にぶつけ、カメラを持ち上げて転んでいた。
近くにいた若者が、数人駆け寄り、「セニョーラ、大丈夫?」と、手を貸して起こしてくれた。
本当に、まあ、セニョリータでないセニョーラが何で、まあ 若者の中で。

それは兎も角、皆さん、メキシコの街を歩くときは、足元に注意して歩いてくださいね。

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写真の説明 :この道は、ソカロ広場と関係ないけど、こんなでこぼこ道があるんですよ!

無料メガコンサート、若者達はとっても楽しんでいました。いいですねえ。
セニョーラは、2、3日、腕が痛かったけど。。。。

革命の英雄 サパタの生涯を訪ねる旅

03 7月
2008年7月3日

メキシコの歴史を紐解くと、過去に辛い戦争の歴史が繰り返されている。
それは、スペインのメキシコ先住民征服戦争(1521年)独立戦争(1810年)米墨戦争(1847年)フランスの侵略戦争(1862年)
そして、革命戦争(1910年)
2年後2010年は、独立200年祭、革命100年祭との事で、政府は記念日を祝うイベントを計画と。

メキシコ革命での戦いで活躍した革命の英雄達。
その英雄達、権力を握る事ができた者もできなかった者も、最後は、皆暗殺された。
メキシコ人に最も愛されている革命の英雄は誰か?
それは、権力を握る事ができなかったけれど、貧しい出身であったけれど、下層の大衆の人々とともにあった
エミリアーノ サパタとパンチョ ビージャ。

そのサパタの生涯を訪ねる。

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写真説明 :サパタの生家の博物館資料 サパタ

サパタは、モレロス州の田舎の農民の子として生まれた。
モレロス州は、昔から農業が豊かにできる地であるが、植民地時代は、先住民と、アフリカから連れてこられた黒人が、
サトウキビの荘園で奴隷として働かされた。

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写真の説明 : モレロス州は、メキシコでももっとも農業に適した豊かな地である。
サパタが活躍した地、モレロス州

独立後さえ、それは奴隷と言わずとも、同じような条件で、多くの農民が自分の土地さえなく農奴として
植民地時代からの荘園に縛られ働かされていた。
悲しい事にメキシコの歴史は、長く、長く支配者と被支配者とからなる社会から成り立っていた。
そして、今はあまりにもの貧富の差という形の社会である。

革命前のメキシコ社会は、ポリフィリオ ディアス大統領の独裁政治で、やはり、一部の豊かで支配する人々と、
多数の貧しい支配される人々からなる、大変不公平な社会であり、恐怖政治が行われていた時代であった。

1910年、フランシスコ マデロが立ち上がり、その後、北で、南でと革命家達が、不満を持つ大衆を動かし立ち上がった。
メキシコの南部で立ち上がったのが、エミリアーノ サパタであった。

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写真の説明 :サパタの活躍したこの地の村々には、必ずサパタの像がある。

サパタは、モレロス州のアネネクイルコ(Anenecuilco)と言う村で1879年に生まれた。
その彼の生家は博物館になっている。
生家は、アドベの壁が残っているだけだが、修復中であった。

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1911年3月サパタは農民を率いて立ち上がった。
そして、11月28日にアラヤ村でアヤラ計画が立てられる。
それは、「その手を使って働いた者に土地を返そう!」という。
“Tierra y Libertad”「土地と自由を!」と言うスローガンのもと。

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写真説明 :サパタの生家の博物館の庭にあるサパタの生涯を描いたロベルト ロドリーゲスの壁画

Tlatizapanの精米工場があった場所に南部解放戦線 作戦本部を設置した。
その場所が博物館になっている。

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写真の説明  :サパタ軍の作戦本部の場所は今は博物館

カランサが政権を握った後も、サパタは南部で、彼の目的である農地解放をしない政治に対して、カランサ政権に反抗して、
農民運動を続ける。
カランサのサパタ暗殺の指令のもと、グアハルドは、サパタの信頼を得、サパタとChinamecaの荘園で会う約束をする。
荘園の門を通り抜けた時、待ち伏せしていたグアハルドの襲撃で、暗殺される。
1919年4月10日の出来事である。サパタは39歳であった。

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写真の説明 チナメカの荘園の門跡、この場所でサパタは暗殺された。
門の壁に弾丸の跡が残こっている。

メキシコの歴史の中で、サパタは常に、メキシコ革命の不滅の英雄である。
サパタの願い、農業をする者に土地を!は、革命戦争後のラスロ カルデナス大統領の時代に
農地解放という事でエヒード制度が実行された。

だが、それは完璧な農地解放であったとは言いがたいのかもしれない。
今なお、大農場主もいるが、多くの農民は貧しい農業を強いられている。

そして、チャパス州の先住民の農民達が、1994年1月1日、北米自由貿易締結の年、武器を持ち反政府集団として、立ち上がった。
それは、サパタ国家解放軍と名乗った。

彼らは、決して、いわゆる一般市民を巻き込むテロ集団とは違う。
あくまでも自分達の権利を主張する、そして生活向上を願っている、社会改革を願っている人々である。
彼らの事をサパティスタという。サパタ主義者と言うところか。

サパティスタが蜂起してから、14年の歳月が過ぎたが、何の問題解決もされていない。
今、武器を持ってメキシコ軍隊と戦っている訳ではない、彼らは自分達の自治区で、自分達の向上を願う集団として生活している。
だが、メキシコ政府は、何とかこれを、潰したいという意思があるのが見え隠れする。

メキシコの先住民を含める農民の多くは貧しい。
サパタの理想は、願いは、今なお、農民の進行形の願いであるようだ。

追記
モレロス州の観光ルートとして、サパタルートの言うのかある。
サパタの生涯、革命の道を訪ねるルートである。
興味があれば、外国の観光客にはちょっとマニアックかもだが、面白いかもしれない。
メキシコの田舎を訪ねる旅も、また別のメキシコを知る方法であるかもしれない。

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