月別アーカイブ: 1月, 2009

村を飲み込んだパリクティン火山

24 1月
2009年1月24日

メキシコも火山国と言っていいかもと思う。
メキシコで火山というと、日々煙を吐き続けるポポカテペトル、メキシコ第二の5452mの山がよく知られているが、メキシコでも世界でも最も若い火山として
知る人ぞ知るというのが、1943年、昭和新山と同じ年に生まれたという、トウモロコシ畑が突如(突如といってもその兆候はあったのだろうが、)噴火をはじめ、
9年間噴火を続け、パリクティン火山が生まれたというもの。

火山への登山の起点となる村、プレペチャ民族のアンガウアンに宿を取った。
前日到着した時から、火山への観光客というので、火山まで行くために馬とガイドの提供をしてきたおじさんの話にのり、朝8時出発。

私の乗った馬は15歳という。馬としたら、壮年は過ぎたという年かもしれないが、リーダ格の馬。いつも、先頭を歩く事を自分に言い聞かせているように、
後から他の馬が追い越そうとすると、若い馬に負けまいというように、先頭の座を守るように歩く。
4頭の馬と、6.7時間のお付き合いをして、馬にも性格がそれぞれある事を知り、馬に初めて乗せてもらって、少々おしりが痛かったけど、馬にも愛着がわいた。

02_01

馬に乗ってゆかなくっても、頑張って徒歩で行く事もできると思えるが、この馬とガイドの提供というのは、この村の大事な仕事である事も確かである。
村の人に言わせると、パリクティン火山が我々に仕事、生活の糧を与えてくれたと。
ただ、馬の背中に乗せてもらって、火山灰のはまり込むような灰の道や岩だらけの溶岩がごろごろしている道を馬は、自分のかって知る道だが、その足場を選ぶように歩くところをみていると、
馬に申し訳ないねえ、頑張って!と声をかけたくなりような気分であった、おしりがだいぶ痛いけど、全工程歩くのとどちらがいいか?

火山の溶岩で埋め尽くされた広大な大地を、遠くにその火山を眺めながら、3時間ほど馬はテクテクと歩き続ける。
時々馬、道草も食ったが、馬の忍耐力もすごいものがあると思う。

02_02

そして、やって来ました。パリクティン火山。

02_03

そこからは馬には一休みしていただいて、今度は本当に私たちの登山となる。登山といっても、40分ほどであるが。
それでも大変だ。

02_04

なんせ、はじめ溶岩のごろごろの道のない上り道をガイドの後に続いて歩く、そのあともっと上へ行くと、今度は火山の砂利の山、これが兎に角、滑る、滑る。
一歩上に上がったと思っても完全に半歩以上は落ちるのだ。
途中まだまだ、蒸気があがっているところがあっちっこちにある。

02_05

山の周りは、まだまだ、不毛の大地が遠くまで広がっている。だが60数年の年月で、所々に木が生え始めている。

02_06

この山のこの場所に、パリクティンの村があったのだ。
吹き上げたマグマはその村を飲み込み、火山となり、そしてまたその溶岩でその隣のサン ファン パラングリティロ村も教会の尖塔と祭壇だけ残しで全てを溶岩の下に埋めてしまったのだ。
二つの村を飲み込んでしまったパリクティン火山である。

幸いな事に、火山は、村人が他の場所へ避難する時間を与えてくれた。木でできた家々は、そのまま運び出す事ができたと。

苦労してやっとの思いで上った火山の頂上。

02_07

こんな時、人はなぜ苦労して山に登るかの気持ちを知る。
パリクティン火山の標高は、3,170m。 下から上るのは500mくらい。その頂上の噴火口の深さは60m以上と、そして噴火口の直径は約250mほど。

02_08

その噴火口の周りをぐるりと歩いて回れる。まだ場所によっては煙をあげ、地面が熱い。
頂上から、周りを全貌する。遠くにシエラ マドレー山脈の山々が望め、パリクティン火山の周りの大地は、溶岩に覆われ、その溶岩が流れた跡さえ生々しく残っているのが遠くまで広がっている。
そして、遠くに小さく、埋められた村の教会の尖塔が見える。

下山は超楽々。ただし埃まみれ。火山の砂利の斜面をただただ滑り下りるというもので、上りに比べたら、あっと言う間でした。
大の大人が嬉々と声をあげちゃって下山しました。

02_09

一休みしていただいた馬の背中にまた乗せてもらって、元来た道を戻り、途中から、また道をそれて、今度は、旧サン ファン パリングリティロの埋もれた教会を見にゆく。

火山の登山をする人はそう多くないが、埋もれた教会まで行くのは、最近は車でも行けるようだし、馬でも小1時間くらいなので行く人が多いようで、
火山へ行く人で見かけたのは、私たちを除いては、その日平日という事もあったであろうが、二人だけだったが、教会の方は結構な人が来ていた。
食べ物を食べさせる露店も何件かあった。

02_10

ここは、車の駐車場というより、馬の駐馬場があって、そこには、お客さんと待つ馬達が何頭もいた。
私たちを乗せてくれた馬達、自分の止まるべき場所をご存知のようで、まっすぐ、そこへ行き、そして、その場所でぴたりと止まった。

教会は、結構大きな教会であったようだ。まるまる溶岩の中に閉じ込められ、片側の尖塔が、遠くからも見える。もう片側の尖塔は完成してなかったとか?

02_11

そして、尖塔は教会の正面側にある訳で、尖塔の反対側というか、教会の一番奥に祭壇があった訳だが、その祭壇は深い溶岩の下にやっぱりそこだけ埋められる事が避けられたように
残っている。
それは、奇跡によって、溶岩の流れが変わって、キリスト像が守られたと言われている。

02_12

写真の説明 :人が覗いている奥が洞穴のようになっている。そこだけ溶岩が入り込まず、そこがまさに祭壇であった。

もともとその場所にあったキリスト像は、村の人々と一緒に新しいサン ファン パリングリティロ村へ引越し、今も、新しい教会で村人の信仰を集めていると。
溶岩の中の祭壇には、同じに作ったキリスト像がおかれ、ここに来る人に信仰されているのだろう、花などのお供えが飾られていた。

02_13

この地には、この埋もれてしまった教会を中心にして、何千人かが住む村が、あった。
自然は、どんなに科学を進歩させた人間をも、あっと言う間に、その猛威によって、押しつぶすしまう巨大な力を持っていると感じる。

三賢人の日のロスカ(菓子パン)

19 1月
2009年1月19日

1月6日の三賢人の日に、子供に玩具のプレゼントをするという事は、前に書いた。
それでは、子供だけが嬉しい想いをする日かというと、その日大人だって楽しむ。それはロスカだ!
どデカイ菓子パン!

メキシコシティーでは、1月6日の三賢人の日に先立つ日曜日、ソカロ広場へ向かう道で、世界最大のロスカが出現した。
本当は、ロスカは円形にドーナツ型であるが、円形にするには、ソカロ広場でやらないといけないのだが、
ソカロ広場は今、またまた、無料アイススケート場と化しているので、場所がないから、ソカロへ向かう道を車の通行禁止にして、
2キロメートル、10tのロスカの出現。
集まった人に、ロスカを切り分けてくれる。メキシコシティとパン業者のイベント。パンの大きさではギネスものかあ。
残念だが、この日2キロメートルのパンの小さな端切れ頂きにいけず、また写真もないが。

2キロメートルのロスカは兎も角、三賢人のこの日は、メキシコ中の人が、このロスカの菓子パンを買いに、パン屋、スパーのパンコーナーに押し寄せる。

01_01

写真の説明 :ロスカが並んでいるパン屋の様子

家族みんなが、また職場でも、職場の人全員が、皆で切り分けて食べられように、その人数で、それぞれ大きな大きなロスカのパンを買うのだ。

パンといっしょに飲む飲み物はチョコレート。ココアミルクと言ったところか。
チョコレートのカカオはメキシコが原産地で、先住民時代においてチョコレートとは苦い汁という意味の言葉であるが、偉い人だけが飲めた飲み物であったのだが。
熱いぶくぶくと泡をいっぱい立てたチョコレートといっしょに、食べる。

01_02

写真の説明 :我が家では一番小さなロスカを買ったが、それでも、直径40センチほど。大きなロスカは大体楕円形になるが、長さ1~1.5メートルくらい。

大きなロスカは、皆がそれぞれ、自分が食べたいだけの食べたいところを、自分で切り分ける。
ロスカの中にはいくつかの小さな裸のセルロイドのキリスト人形が隠されている。

01_03

写真の説明 :ロスカの中に入っている、キリスト人形。

自分の切り分けたロスカの中にこのキリスト人形が入っていると、皆に拍手喝采される。
このキリスト人形のパドリーノス(代父母)になるという事とか?
それで、そのキリスト人形があったった人は、2月2日のカンデラリア聖母の日、裸の小さなキリスト人形に洋服を着せて、教会へつれて行き、
タマレス(トウモロコシの粉で作ったチマキのような食べ物)を作って皆を招待する義務が生じると。

01_04

写真の説明 :タマレス。トウモロコシの粉にいろいろ入れて、トウモロコシの皮や、バナナの葉に包んで蒸して作ったもの

まあ、この小さなキリスト人形に洋服を着せてという事はないようだが、このカンデラリアの日は、皆、キリスト像におしゃれをさせて、教会にお参りに行く日である。

三賢人の日、皆が集まって、熱いチョコレートと干しフルーツのいっぱいのったロスカの菓子パンを切って食べる。
家族の、また職場での皆の団欒の時であるようだ。

プレペチャ民族末裔の村

12 1月
2009年1月12日

ミチュワカン州への小旅行をした。
ミチュワカンの田舎は、オアハカ州やチャパス州と同様に、先住民の文化が色濃く残る地区であり、またその民芸品も豊かな地区である。

だがメキシコの何処の田舎の村でも、もう、お年寄り以外は、ほとんど先住民語を話さない、もともと彼らの民族の誇りであり民族を主張するはずであった村の民族衣装も
若者は着なくなってしまうという事が普通である。

それは、余程、アクセスが難しく、外界との接触がない地区でない限り、当然、時の流れや豊かな便利な文化への憧れと共にあり得るのだ。
そして、世代が変わるにつれて、メキシコでは60言語くらいあるといわれている先住民語も、消えてゆく運命にあるのかもしれない。

トウモロコシ畑に1943年突如噴火が始まり、2つの村を飲み込み、生まれた火山、パリクティン登山を目指して、その起点となる村 アンガウアンへ夕方着いた。
標高2240mくらいと言う村は、緑豊かな山の中の村であった。
バスを降りると、夕方の山の冷気がどっと身にしみる。
あわてて、着ていたセーターの上にさらに、日本へ冬行った時にメキシコでは必要ないかと思いつつも日本の冬に耐えられず買った上着を着る。

村の中心へは、バス停からだいぶ歩いて行く、やはりバスを降りた若い女性が、「私の家もそちらだから一緒に行きましょう」と言ってくれた。
彼女は、民族衣装ではなく、普通の洋服を着ていた。多分、仕事で他所からバスで帰宅したところだったのだろう。

彼女は、もちろん、我々にスペイン語で話してくれた訳だが、小さな村の人々は皆知り合い、道中で会う人ごとに挨拶を交わす。
だが、それはスペイン語ではなく、彼らの言葉、プレペチャの言語。
聞いていると、老いも若きも子供でも、彼らの間では、彼らのもともとの先祖からの言葉で話している。

我々がスペイン語で話すと、彼らはきちりとスペイン語で話してくれる。
彼らは完璧なバイリンガルであるようだ。
だが、彼女の言うに、お年寄りはプレペチャ語しか話せないと。

田舎の村でも、今では、ほとんどの人がスペイン語が日常語で、先住民語はお年寄りしか話さない、だから、若い人は先住民語は少しは理解しても話せないという風になりつつあるようだ。
だが、この村の人々にとっては、プレペチャ語が母国語のようだ。
村中に響いてくる放送もプレペチャ語のようで、何を言っているのか分からない。

この村が決して外との接触がない村なわけではない、むしろ、彼らの生業のもっとも重要なものは観光業であるのだ。
つまりパリクティン火山への観光の村なのである。

村の家々はレンガの家もあるが、多くはこの地に豊かな木材を使った家で、車も通るが、薪を背負って歩いてゆく人もいる。

02_01

また、この地の観光の稼ぎ手の馬が、軒先に繋がれていたり、ご主人に引かれて歩いていたり。

02_02

02_03

家の前に座って、刺繍などをしている女性がいたり。

02_04

村全体は質素なもの寂しい感じさえする村という印象。
そこに、村の女性達が明るい原色の民族衣装のスカートを身に付けショールを覆い、道を行く、また、教会でお祈りしていたりする。

02_05

02_06

騒々しい大都会メキシコシティから来た私は、何か別世界に迷い込んだような気持ちになった。

村でこの時期、ポサーダ(クルスマスの祭り)が行われていて、ピニャータを割る子供達の嬉々とした声が響いていた。
都会でも、田舎でも、ピニャータを楽しむ子供達は変わらないようだ。

02_07

命の水、雨への渇望

06 1月
2009年1月6日

今、メキシコは乾季である。
ほとんど半年雨が降らない。
南東部の全体的に水の豊かな地区は兎も角、メキシコの中央部から北部地区にかけては、砂漠のような風情、草が枯れ茶色の大地がもの悲しい。

実は、最近、家庭菜園を始めた。
大豆はメキシコでも買えるけど、あのビールに合いそうな枝豆も食べたいと大豆も蒔いた。
トウモロコシも蒔いた、えんどう豆も蒔いた。豆も蒔いた。
豆類ばかり蒔いているが、この土地は、実に何十年という間、ゴミが捨てられて、
人に踏みつけられていた所で、実に痩せた土地だから、まず豆を蒔こうと思ったわけだ。
幸い、そんな痩せた土地にも、生命の芽が生まれた。

だが、乾季の今、3日に1度くらいは水をあげないと、小さな植物も、救命を訴えるように、喘いでいる。

時々、仕事で、ティオティワカンのピラミッドへ行く。
01_01

考古学者が、今、あの大きな太陽のピラミッドの正面側を発掘している。
発掘中の正面の中央の階段とか、その横の石の彫刻が見えた。
また、太陽のピラミッドの下にある洞窟の通路も作業中であるようで、電灯が
点けられていて、まっすぐの通路が伸びているのが見えた。
この洞窟は公開された事がないので、観光客の人へお話するだけで、実はみた事がなかった洞窟である。
もちろん、その通路約100mの一番奥、そこは、ピラミッドの中心の真下に当たるそうだが、そこには4つの洞窟の空間があり、そこは、水の神を祭ったところらしい。

発掘していた石の彫刻は、二重丸のティオティワカンで常に壁画や石の彫刻に描かれているあのチャルチル(水晶の球)という水、雨のシンボルである。

01_02

中央高原地方の雨の神トラロックの目である。

01_03

写真の説明 :テイオティワカン遺跡の壁画のコピー
雨の神トラロックの天国が描かれていると言われている。

01_04

写真の説明 :トラロック神 (テイオティワカン遺跡の壁画)

メソアメリカ文明の宗教は、もちろん雨の神の他に、自然の全て、太陽、金星、風、大地の水、火、月、稲妻、大地、死、戦い、etc と全てが神をされた。

だが、その多くの神々の中でも、最も重要視された神は雨の神であったであろう。

メソアメリカ文明はトウモロコシを主食とする農耕文明である。
そのトウモロコシが実るか実らないかは雨の神の御心一つであるのだ。
そのためにメソアメリカ文明において、人々は雨の雫と交換に神に人間の命の雫、人間の心臓、血を捧げるとう宗教であった。

そうして昔から、人々は、命の水、雨を渇望し続けてきた。

今のメキシコシティの盆地、ここには昔は大きな湖であり、周りの山々から多くの川が流れていたであろう事を思う。

01_05

写真の説明 :国立人類学博物館 先古典期の部屋の当時のメキシコ盆地の模型
山から多くの川が湖に流れ込んでいる様子が分かる。

だが、今は、メキシコシティーやその周辺には川もなく、また山は木が少なく禿山が多い。
メキシコシティの水不足のニュースを聞くたびに、メキシコの近い将来起こりうるであろう水不足問題、水戦争の事を憂う。

2000年以上の昔から、雨の神に祈り雨を願った人々がいた。
それは、ティオティワカンなどの遺跡から発見された壁画、彫刻などにその願いを印している。

命の元、水、雨への渇望は全ての生命の渇望である。

Copyright© 2017 メキシコ情報 All Rights Reserved.