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国際共通語の考案者ザメンホフの足跡

25 7月
2007年7月25日

国際共通語エスペラントをご存知でしょうか?

ポーランドのユダヤ系眼科医ザメンホフが、今から100年余り前に、
世界共通語として考案した人工国際語です。

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[写真]ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフ

ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフは、1859年ビャウィストクのユダヤ系医師の家系に生まれました。
当時のビャウィストクは帝政ロシア領で、街にはロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人など、
互いに民族、宗教、言語の異なる人々が住んでいました。
互いに言葉が通じないことから、ビャウィストクでは住民同士のいさかいが絶えず、
少年時代のザメンホフは、言葉が通じないことのわずらわしさを日々肌で感じていました。
「民族に中立な共通語を作れば、民族集団の間で相互理解が進み、憎しみや偏見がなくなる。」
と考えたザメンホフは、ついに1887年に人工国際共通語エスペラント語を提案しました。

エスペラント語は、文法や発音の簡易さなどから、発表されるや否や、
世界中から多くの支持者を集めました。話者は現在およそ100万人にのぼり、
毎年夏には世界エスペラント大会が開かれ、文化交流会や国際会議などを行っているほか、
インターネットの世界でも、エスペラント語でのチャットやフォーラムなどが盛んに行われています。

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[写真]世界エスペラント大会の様子

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ザメンホフの足跡は、生誕地ビャウィストクと、青少年時代からの半生を過ごしたワルシャワ、
そして隣国リトアニアのカウナスやドルスキニンカイ近郊にて辿ることができます。

ビャウィストクはポーランド北東部最大の街で、ワルシャワから特急列車で3時間ほどです。
ザメンホフの生家は残念ながら現存していないのですが、かつて生家があった場所に、
ポーランド語とエスペラントで、「ここに、エスペラントの創始者ザメンホフの生家があった」との
説明プレートが飾られています。また近所の公園にはザメンホフの胸像もあります。

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[写真] ビャウィストク市にあるザメンホフの胸像

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[写真] ザメンホフの生家跡

ワルシャワ旧市街北のユダヤ人共同墓地には、ザメンホフとその家族のお墓があります。
墓地の最寄のバス停は、ザメンホフにちなんで「エスペラント」という名前になっており、
「エスペラント」行きのバスに乗れば、この墓地に簡単にアクセスできます。

またワルシャワ旧市街の北東、ムラヌフ地区のザメンホフ通りには、ザメンホフの住居跡があり、
建物側面の記念パネルに、ここがザメンホフの住居跡であった事が記されています。

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[写真]ワルシャワのザメンホフ通り

このムラヌフ地区というのは、歴史的にユダヤ人が多数住んでいた地域で、
そのため、1939年に第二次世界大戦が始まり、ワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、
このムラヌフ地区を中心に、ワルシャワ・ゲットー(ghetto)が設けられました。

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[写真]ゲットー蜂起記念碑

ザメンホフ自身は1917年に亡くなったので、第二次世界大戦の悲劇は経験していませんが、
息子アダムと、二人の娘リディアとゾフィアは、ワルシャワに住んでいた他のユダヤ人同様、
ホロコーストの犠牲になり、絶滅収容所の露と消えました。

ユダヤ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人など、互いに言語や宗教が異なる民族の、
相互理解、そして平和共存を願ってやまなかったザメンホフですが、皮肉なことに、
自らの子孫がホロコーストの犠牲になり、またその名を冠したザメンホフ通りこそが、
同胞のユダヤ人を、ゲットーから絶滅収容所へと導く道となってしまったのでした。

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ビャウィストクやカウナスなど、ポーランド・ロシア・リトアニア隣接地域、
すなわち帝政ロシア時代のユダヤ教徒居住区であったグロドノ県一帯からは、
ザメンホフのほかにも、マックス・ヴァインライヒ、ウリエル・ヴァインライヒ、
エリエゼル・ベン・イェフダーなどのすぐれた言語学者が数多く誕生しています。
それゆえ、この地域の民族共存の歴史と、言語学との関係も研究されています。

エスペラント語の創始者ザメンホフについても、その人生観や考え方に触れることで、
ポーランドの民族史や民族性について、よりいっそう理解を深めることができるのではと思います。

折りしも、今年の世界エスペラント大会の開催地は日本です。
8月4日(土) ~ 11日(土)まで、横浜市のパシフィコ横浜他の会場で開催されます。
日本での世界大会の開催は、1965年の東京大会以来、実に42年ぶりのことです。
また再来年の2009年には、地元ポーランドで開催されることが決定しています。
世界大会では、各国の伝統芸能や民族文化の紹介、経済会議や女性運動会議など、
大小実にさまざまな会合が催され、通訳のいない国際会議が実現されます。

アウシュヴィッツ収容所の改名騒動

15 7月
2007年7月15日

6月末ニュージーランドで開かれたユネスコ世界遺産会議にて、
島根県の石見銀山が新たに世界遺産に登録され、話題を呼んだのは記憶に新しいところです。

その同じ会議にて、ポーランドの「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制・絶滅収容所」が、
「アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所」と改名されました。
変更後の名称では、ナチス・ドイツによる収容所であることを明確に示す名前となっています。

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[写真] 「働けば自由になる」の文字が掲げられた収容所入り口の門

アウシュヴィッツ収容所は、1979年にユネスコ世界遺産に登録されました。
この強制収容所では、第二次世界大戦中、ユダヤ人をはじめヨーロッパの28の民族が、
強制収容され、重労働をさせられた上、ガス室に連行されて殺されました。
戦争の悲劇を二度と繰り返さないために、人類の「負の遺産」として
後世に残すべきものとして、その歴史的価値が非常に重要視されている場所です。

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[写真] 収容所の「囚人」の出身地はヨーロッパのほぼ全土に渡っていました

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[写真] ビルケナウ収容所入り口の「死の門」

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[写真] 「死の門」をくぐって鉄道の引き込み線が収容所内まで引かれていました

今回の改名騒動のことの発端は、アメリカなどの諸メディアにおいて、
アウシュヴィッツ収容所が「ポーランドの強制収容所」として紹介されたことでした。
これにポーランド政府が深い懸念を示し、正式名称の改正を要求したのです。

ポーランド政府が留意したのは、「ポーランドの収容所」という呼び名が使われては、
「ポーランド人がユダヤ人虐殺この強制収容所を造った」との誤解が生じるという点です。
それゆえ、ナチス・ドイツによる収容所であることが明確にわかるように、登録名称を
「旧ナチス・ドイツのアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所」 に変更するよう、
かねてからユネスコ世界遺産会議に要求してました。
この改名案は、一部ユダヤ人団体の反発をうけて保留となっていましたが、
このたび正式に改名されることとなったのです。

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[写真] 「囚人」が寝かされていたベッド

今回の名称改正決定をうけて、ポーランドのウヤズドフスキ文化相は
「歴史の真実が勝利した」と大歓迎、各メディアも吉報として大きく伝えました。

それにしても、名称一つになぜそこまでのこだわりがあるのでしょうか。

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[写真] ビルケナウ収容所全景

ポーランドに来てからわかったのですが、ポーランド人は、
「ポーランド人がアウシュヴィッツ収容所を造った」
「ポーランド人がユダヤ人虐殺を先導した」
と誤解されることに対して、とても神経質な人が多いのです。

アウシュヴィッツ収容所は、そもそもポーランド陸軍の宿営地だったものを、
第二次世界大戦でのナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻で大量に発生した「政治犯」、
つまりナチス政権に反逆する人を収容する政治犯収容所として用いたことが始まりで、
のちに各地のゲットーから輸送されてきたユダヤ人も収容するようになりました。
したがって「ポーランドの収容所」という呼び方は間違ってはいないものの、
ポーランド人がユダヤ人虐殺の当事者であるかのような誤解を招くのもまた事実です。

そうでなくともポーランド・ロシア・ウクライナ・リトアニアなどの旧東欧の国々は、
反セム人種的な国であるという歴史的な認識があります。それ故ポーランド人は、
ポーランド人が強制収容所を作り、ユダヤ人虐殺に率先して関与した、
との疑惑の目を向けられるのを、大変嫌悪しているのです。

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[写真] 戦争では多くの幼い子供たちの命が犠牲になりました

思い違いといえば、「アウシュヴィッツはドイツにある」
と思っている日本人がとても多いことにも、大変驚かされます。
アウシュヴィッツの悲劇というと、日本ではドイツ人(ナチス)対 ユダヤ人という
説明のされ方が一般的であるからゆえなのでしょうか。
しかしポーランド人にその話をすると、今度は逆にびっくりされます。
そして「ポーランド人がアウシュヴィッツ収容所を造ったなどという発想は、
日本人には出てこない」と付け加えると、皆ほっとした表情になります。

ちなみに、そういった事情から、ポーランド人にアウシュヴィッツの話題をしても好まれませんし、
「アウシュヴィッツを見学に行く」というと、あまりよい反応が返ってきません。
「せっかく日本から来たのだから、わざわざそんな所に出かけなくてもいいのに」
「クラクフには、他に見るべき所は沢山ある」と、皆一様に顔を曇らせます。
また中には、「アウシュヴィッツはヨーロッパの悲劇の歴史なのに、
どうしてアジア人の日本人が興味を持つのか?」と真顔で聞いてくる人もいます。

ポーランドでは、アウシュヴィッツ、第二次世界大戦、ユダヤ人といったテーマは、
非常にデリケートな話題で、対内的にも対外的にも、発言には常に正確さが求められます。
そして誤解を与えるような発言があれば、ただちに訂正と謝罪が要求されます。
それを象徴しているのが、今回のアウシュビッツ収容所の改名騒動といえるでしょう。

世界の中のポーランド人

09 7月
2007年7月9日

「日本人は世界中のどこにでもいる」とはよく言われる言葉ですが、
実は奇遇なことに、ポーランドにも、これとよく似た言い回しがあるんです。

ポーランド人はどこにでもいる-
ポラツィ・フシェンジェ・ソン-Polacy Wsiedzie Sa

ポーランド人というのはヨーロッパ人の中でもかなり人口の多い民族で、
ポーランド国内に約3700万人、そして国外にもおよそ1000万人がいるといわれています。

ポーランドは、その不幸な歴史から、過去数世紀にわたり、沢山の海外移民を排出してきました。
19世紀から20世紀初頭にかけて、アメリカ、カナダや南米などに渡った移民、
そして20世紀初頭から第二次世界大戦前後にかけては、ロシアによる共産主義政策の影響で、
ロシアのシベリア地方や極東地方、カザフスタンなどに大勢の人が強制移住させられました。
彼らの子孫はすでに三世・四世になっており、大部分の人が、現在もそのまま移住先の国で生活しています。

これらのポーランド人移民は、移住先でポーランド人街を結成し、
今でもポーランド人だけで固まって生活している人が多いようです。
とくにアメリカのシカゴは、世界でワルシャワについで二番目に大きいポーランド人の町といわれ、
現在でもまったく英語を使わずにポーランド語だけでも生活が可能なほどだそうです。

そして21世紀に入り、今ポーランドでは、ひときわ大きな移民の波がおきています。
2004年5月のポーランドEU加盟と前後しての、他のEU加盟諸国への労働移民です。

ポーランドと西ヨーロッパ諸国では、賃金に5-10倍の開きがあるといわれています。
そのため2004年5月のポーランドEU加盟以来、若者を中心に100万人以上のポーランド人が、
出稼ぎのために賃金のよい西ヨーロッパやスカンジナヴィア諸国に移住しました。
医者・看護婦・教師などのインテリから、配管工・土木作業員まで、
実に多くのバックグラウンドを持つ人が、こぞって国を後にしたのです。

その結果、イギリス、アイルランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなど、
賃金がよい西欧・北欧の国々には、現在大勢のポーランド人が出稼ぎ労働者として働いています。

いまや西ヨーロッパではポーランド人労働者の姿を見かけない国はありません。
とくに言語の習得が簡単で賃金もよいイギリスでは、約100万人ものポーランド人が暮らしており、
イギリス史上類を見ない数のマイノリティ集団を形成しているそうです。
あまりのポーランド人の数にイギリス人もびっくり。
「イギリス人の仕事が奪われる」と危機感を持つ一方で、
ポーランド語を習い始めるなどポーランドに興味を持つ人もでてきているそうです。
あまりのポーランド人の多さに、道路標識にポーランド語表記を追加した自治体も現れました。

またスコットランドでは、これら移住ポーランド人が選挙権を持つことから、
独立推進派がポーランド人へのスコットランド政治への参政をよびかけ、
スコットランド独立への支持を取り付けるために、ポーランド語での政治新聞を出す動きもあるそうです。

一方で、歴史的にポーランド人の多くは異民族・異人種になれていないため、
イギリスなどほかの移民も多く他民族・他人種国家となっている国では、
ポーランド人の子供が学校で有色人種の子供と一緒のロッカーやハンガーを使うのを嫌がったり、
親までもが、学校を選ぶ際に有色人種の子供はいるのかと質問したりと、
一部で社会問題化しているそうです。

このように、EU加盟以降ヨーロッパ中に散らばっているポーランド人移民は、
移住先の各国で各方面に少なくない影響を与えています。

ところで世界中どこに住んでいても、そして祖国を離れて何十年が経とうとも、
ポーランド人が、誕生日や名前の日(Name Day)などの祝い事の日に必ず歌う、
「Sto lat / ストラト(百歳)」という歌があります。

♪ Sto lat, sto lat, niech zyje zyje nam!
ストー ラト、ストー ラト、ニェフ ジイェ ジイェ ナム
百歳まで生きますように♪

もし旅先でポーランド人に出会ったら、この「Sto Lat」の歌を歌ってみましょう。
「どうしてその歌を知っているの??」と満面の笑顔で喜んでもらえるはずです。

ポーランド料理のお店、フォプスキエ・ヤドゥオ

02 7月
2007年7月2日

折角ポーランドまで来たのだから、ぜひポーランド料理を食べたい!
ということで、今日はおいしいポーランド料理の店、フォプスキエ・ヤドゥオをご紹介します。

フォプスキエ・ヤドゥオは、ワルシャワ、クラクフなどポーランドで全国展開している
ポーランド料理の老舗で、ポーランドで一番有名なポーランド料理の店です。
クラクフには、グロツカ通り店・聖ヤナ通り店・聖アグニィエシュカ通り店の三店舗があり、
このうち聖アグニィエシュカ通り店では、夕方7時から民族音楽の生演奏が楽しめます。
どのお店も夕方になるととても混んでいて、あらかじめ席の予約をしないと座れないほどです。

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お勧めメニューは、発酵ライ麦のスープ、ジューレックや、ビゴス、ピエロギなど。
スープとメインディッシュの肉料理(か魚料理)をあわせて注文するのが普通ですが、
日本人には量が多いので、小食の方は、二人で一皿をとるのがいいかもしれません。

いまやフォプスキエ・ヤドゥオの名前はすっかり有名ブランドになっており、
ブランド名の入ったお惣菜やジャムなどが、全国各地のスーパーマーケットで販売されています。

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ところでこのフォプスキエ・ヤドゥオでは、お店に入ってオーダーをすると、
下の写真のようなものが出てきます。
まな板にどかっとのせられた大量のパンに、よく切れるナイフ。
コップ一杯に入っているのは、なんとラードとクリームチーズです。

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これ、日本の酒屋ででてくるお通しのようなものなのです!
「所変われば… 」とはよく言ったもので、ポーランド流お通しの豪快さにはビックリです。

ただここで気をつけたいのは、このお通しを食べすぎてしまうと、
オーダーしたお料理が食べられなくなってしまいますので、注意が必要です。
私の友達は、このラードをジャガイモだと勘違いして、パンに塗ってどんどん食べてしまい、
いざ肝心のお料理が出てきたときには、もう満腹で食べられなくなってしまいました。
折角おいしい料理を頼んでも、おなかが一杯で食べられないのではもったいないので、
このお通しを食べ過ぎないように、注意しましょう!

ところで紛らわしいことに、クラクフ旧市街に
「ポルスキエ・ヤドゥオ」という看板を掲げている店があります。

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そしてこの店のお通しがこれ。

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もちろんフォプスキエ・ヤドゥオとは全然別のお店なのですが、表の看板といい、
最初に出てくるお通しといい、何から何までフォプスキエ・ヤドゥオにそっくり!
有名店にあやかった二番煎じ?の店なんです。

もちろんこちらの「ポルスキエ・ヤドゥオ」のほうは、知名度が全くないので、
客の入りも少なく、値段も若干安めです。
というわけで先日こちらのポルスキエ・ヤドゥオの方に入ってみたのですが、、
やはり雰囲気もお料理の味も、本家には全然かなわないなという気がしました。

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