月別アーカイブ: 8月, 2007

ヴィスワ川クルージングとティニエツ修道院

25 8月
2007年8月25日

国土のほぼ中央を流れるヴィスワ川は、ポーランドの母なる川です。
グダニスク、トルン、ワルシャワ、カジミエジュ・ドルヌィ、サンドミエジュ、クラクフなど、
中世以前の時代からの街の多くが、ヴィスワ川沿いに発展した街です。
川を背にする格好で市街地を築くことで、敵軍の攻撃に備え、
一方で川を使って麦や岩塩・琥珀原石などの特産物を運搬し、
商業貿易による繁栄を築くことができたからです。

グダニスク、サンドミエジュ、クラクフなどの観光地では、
夏季の観光シーズンの間、ヴィスワ川遊覧船が出ています。
旧市街を一通り見終わったら、遊覧船に乗ってみるのも、楽しみの一つです。

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[写真] ヴィスワ川の遊覧船

クラクフでは、ヴァヴェル城下からヴィスワ川遊覧船が運航されています。
遊覧船側からヴァヴェル城を望む景色は格別です。

プラハやブダペシュトのように、川の両岸に旧市街が広がる街と違い、
クラクフの旧市街は、ヴィスワ川北側のみに広がり、南側は住宅地となっています。
それゆえヴァヴェル城や旧市街の見晴らしを楽しもうとすると、
長い橋を渡って、ヴィスワ川の南側へ足を運ばなければいけません。
しかし遊覧船にのれば…..わずらわしい橋を渡らずとも、
手軽にクラクフ旧市街のパノラマを楽しむことができるのです。

遊覧船の多くは、ビアガーデンスタイルになっており、停泊中も利用できます。

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[写真] ヴィスワ川からみたヴァヴェル城

クラクフ市内観光コースでは、ヴァヴェル城下を出発し、まず上流側を見学。
ノルベルタネク修道院、コシュチューシコの山(遠景)、ビエラニィの修道院などを見学。
次に戻って今度は下流側の、日本美術技術センター・マンガ、スカウガの修道院、
レデンプトリスト修道院、ユゼフ・ピウスツキ橋、ポドグジェ広場教会の塔、
聖体教会の塔、コトラルスキ橋 を見学、合計30分のコースです。

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[写真] ノルベルタネク修道院

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[写真] スカウガの修道院

日曜日には、ベネディクト大修道院で有名なティニエツへ行くコースも出ています。
ティニエツ(Tyniec)は、かつてはクラクフに隣接する小さな田舎の村でしたが、
現在は、クラクフの街の拡大に伴い、クラクフ市の一部となっています。
ティニエツ修道院行きの船も、クラクフ観光コースと同じ場所からの出発です。
バスの利用も可能ですが、あまり本数がなく乗り換えが不便なので、遊覧船がお勧めです。

ティニエツへは、片道一時間半、合計三時間の長旅となります。

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[写真] のんびりとした田園風景がどこまでも広がっています

途中の見所は、コシチューシコの水門。ここで5メートルほどの高低差を登ります。
この水門を通過すると、ややあって、ティニエツ修道院の建物がみえてきます。

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[写真] コシチューシコの水門

ティニエツに到着したら、船をおり、ベネディクト大修道院を訪れてみましょう。

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[写真] ティニエツの船着場 :カップルや家族連れなど、大勢の人でにぎわっています。

ベネディクト大修道院の歴史は大変古く、はるか11世紀にさかのぼります。
13世紀には、モンゴル軍の襲撃にあい、破壊されましたが、その後、
ゴシック、ルネッサンス、バロックなど時代の流行の様式で何度も 修復・改造されました。

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通りから教会へのアプローチ。16世紀に作られたものです。
ヴァヴェル城の入り口の坂と似たスタイルになっています。

教会では、今日でも毎週日曜日にミサが行われており、
クラクフからも大勢の人が参列しています。
遊覧船は、このミサの時間にあわせての発着となっています。

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[写真] ベネディクト大修道院

場末感がただような、それでいて生き生きとした活気に満ち溢れていて。
中世にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える、とても不思議な場所です。

三つ子の都市、グダニスク、グディニャ、ソポット

15 8月
2007年8月15日

グダニスク、グディニャ、ソポットの三都市は、
Trojmiasto-三つ子の町と呼ばれ、
三つあわせてメトロポリスを形成しています。

前回、前々回ご紹介したグダニスクに続き、今回は、
グディニャとソポットの街をご紹介したいと思います。

グディニャ(Gdynia)-「ポーランド回廊」の街

グディニャは、グダニスクから北西へ25kmの港町で、
面積約136平方km、人口は約25万人ほどです。
街の見所は、コシチュシュコ広場、グディニャ港、シヴィエントヤンスカ通りなどで、
ポーランド最大のグディニャ造船所があることでも知られています。

グディニャの街の歴史は古く、すでに10世紀の文献に記載があります。
とはいえ19世紀までは、グディニャはバルト海沿岸の小さな町でした。
ポーランドの歴史の表舞台へ登場したのは、20世紀になってからです。

20世紀、二度のポーランド分割を経て、ポーランドは悲願の独立を果たしました。
しかしかつてポーランド領土であった港町グダニスクは、ポーランドへは返還されず、
「自由都市」ダンツィヒとして、国際連盟監視のもと、独立国家になってしまいました。

そのためポーランドは、ドイツ帝国から、バルト海への出口として、
海岸線を含む領土、いわゆる「ポーランド回廊」を譲り受けました。
しかしこの「ポーランド回廊」には、港もなければ、内陸部へと続く鉄道もありませんでした。
そこでポーランドは、この「ポーランド回廊」部分に新しくグディニャ港を建設し、
自国の輸出入貨物をグディニャ港取り扱いとすることにしたため、
グダニスク港での貿易取引量は激減し、変わってグディニャ港が栄えました。
こうして発達したのが、今日のグディニャです。

今日のグディニャは、ポーランド最大の造船所を抱える街として、
またグダニスクの衛星都市として、そしてベッドタウンとして栄えています。
グダニスク観光の折りには、ぜひグディニャまで足を伸ばしてみてください。

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ソポット(Sopot)-ポーランド随一のリゾート地

三つ子の町の真ん中に位置するソポットは、ポーランド随一の避暑地。
毎年国内外から多数の観光客が訪れる、一大リゾートの街です。

港町のグダニスクやグディニャに対し、ソポットには美しいビーチがあります。
毎年大勢の人がソポット海岸を訪れ、ビーチバレーをしたり、
一日中寝そべって肌を焼いたりと、短い夏を思う存分に楽しんでいます。

毎年8月には、毎年恒例のソポット音楽祭が開催されています。
音楽祭には、リッキー・マーティンなど世界中の超有名豪華ゲストが招かれて
夏を彩る数々のイベントが催され、ポーランド全土にテレビで生中継されます。

ソポットの観光のもうひとつの目玉が、海へと続く、木製の桟橋です。
ヨーロッパで一番長い木製の桟橋で、8月の音楽祭の期間には、
この桟橋を中心に、多数のイベントステージが設けられます。

またここはウィンドサーフィンのメッカでもあります。
バルト海沿岸のソポットやヘル半島の付近は、遠浅の海が続いているため、
初心者でも気軽にウィンドサーフィンを楽しめる人気のスポットだそうです。

ソポットは、日本でいうと湘南の海のような感じ。
年齢を問わず、老若男女、誰にでも人気のリゾート地です。
また当然ながら、豪華なリゾートホテルも数多く建設されており、
不動産投資家の間でも注目されている所です。

グダニスク-激動の20世紀ヨーロッパ史の舞台となった町

05 8月
2007年8月5日

第二次世界大戦、そして東欧民主化-
グダニスクは、激動の20世紀ヨーロッパ史の舞台となった町です。

グダニスクの町は、その建設以来、常にヨーロッパの歴史に翻弄されてきました。
バルト海に面した港町、ヴィスワ川河口の大都市という地理的・軍事的な利便さから、
近隣諸国の間で、常に激しい利権争いが発生し、幾度となく統治者が変わりました。

グダニスク(ダンツィヒ) 略史

10世紀 ポモージェ人により建設され、のちにポーランド王国に編入
1310年 ドイツ騎士団領が街を占領、ドイツ騎士団領ダンツィヒとなる
1466年 グルンヴァルトの戦いで、ポーランド・リトアニア軍勝利、トルンの和約によりポーランド領に
1793年 ポーランド分割により、プロイセン領に組み込まれる
1807年 ナポレオンの時代に「ダンツィヒ自由都市」として自治権を持つ半独立州になる
1815年 ウィーン会議にて再びプロイセン領に併合
1920年 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により、再び自治権のある都市国家になる
1939年 ナチス・ドイツ軍ポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発
1945年 第二次世界大戦終了、ヤルタ会談により再びポーランド領土に

このように、グダニスクの街は、その約1000年の町の歴史のうち、
約三分の二にあたる600年以上がポーランド領の時代、
約三分の一にあたる約260年がドイツ・プロイセン領の時代でした。
こうした複雑な歴史背景から、グダニスクの街は他民族都市の様相を呈しており、
住民の9割はドイツ語を話すドイツ人、残りがポーランド人、ユダヤ人などでした。
しかし街は実質的にポーランド人に支配されていて、経済的にもポーランドに有利になっており、
それが「ドイツ人を守る」という名目での、ナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻につながりました。

1939年9月1日、グダニスク港のヴェステルプラッテ岬(Westerplatte)にて、
ナチス・ドイツ軍が突然ポーランド軍に侵攻、ヨーロッパは新たな戦火に包まれました。
ただちにポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが9月3日にドイツに宣戦布告、
すると9月17日ソ連軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。
こうして始まった世界大戦は、またたく間にヨーロッパ全土に飛び火し、
ポーランド史上、そしてヨーロッパ史上未曾有の大悲劇となりました。
ポーランドでは、人口の五分の一にあたる約500万人が犠牲になり、
とりわけユダヤ人住民は、その多くが強制収容所に送られ、帰らぬ人となりました。
独ソの激戦地となったグダニスクは、終戦までに町のほぼ全域が廃墟となり、
ドイツ人住民の多くがソ連軍を逃れ西に避難、残っていたドイツ系住民も、
戦後ドイツへと強制移住させされました。

この戦争から60余年が経過し、今日では世界中からの多くの観光客が、
グダニスク観光の折りに、このヴェステルプラッテ岬を訪れています。
ナチス軍の急襲で破壊され廃墟となった建物は、現在、記念館として公開されており、
ポーランド軍を攻撃したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン号の2つの砲弾が、入り口前に飾られています。
人類史上まれに見る未曾有の悲劇を生んだ、第二次世界大戦。
その勃発の地に刻まれた、平和記念碑の- Nigdy Wiecej Wojny – No More War- の文字は、
訪れる人々に、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを訴えかけています。

さて第二次世界大戦が終了し、ポーランドは再び独立を果たすと、
ほどなくソ連(当時)主導による共産主義経済圏に組み込まれました。
1948年、ソ連の後援で共産党系のポーランド労働者党とポーランド社会党の左派が合同、
ポーランド統一労働者党を結成し、一党独裁の社会主義体制へ移行しました。
ソ連指導による共産主義の経済政策が導入され、1952年には社会主義憲法が制定、
他の東欧諸国とともに、ポーランドはソ連の衛星国となります。

歴史的に反ロシア感情が根強いポーランド人にとって、
共産主義による政治・経済の支配は、あらたな屈辱の時代の始まりでした。
幾度となく反ソ連・反政府デモが起こりましたが、鎮圧されてきました。
とりわけ1956年と1970年の労働者デモは大規模なものでしたが、
いずれも政府により鎮圧され、多数の犠牲者を出しました。

しかし1980年、政府が食肉の値上げを発表したことで、国民の怒りが爆発、
レーニン造船所(現グダニスク造船所)の電気技師だったレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)が、
ストライキを起こし、労働組合「連帯」を立ち上げると、全国で賛同者を集めました。
ソ連の軍事介入を恐れたポーランド政府は、戒厳令を発令、「連帯」を違法化し、
市民は更なる恐怖政治と深刻な品不足に悩まされることになりました。
しかしついに1989年2月、「円卓会議」により、政府と「連帯」との対話が再開し、
同年6月の総選挙の結果、統一労働者党は敗れ、社会主義体制が崩壊しました。
ヴァウェンサは、1983年にノーベル平和賞を受賞、1990年にはポーランド大統領に就任しました。

こうしてグダニスクの街から始まった民主化運動は、ポーランドを民主化し、
それに引き続いて東ドイツ、チェコ、スロヴァキア、ルーマニア、バルト三国など
東ヨーロッパ全体に民主化運動が広まって、やがて東欧共産圏が崩壊しました。

バルト海の宝石-グダニスク

03 8月
2007年8月3日

バルト海沿岸の町グダニスクは、ポーランド最大の港町です。
そしてその旧市街の美しさから、ポーランドでもっとも美しい街の一つといわれています。

かつてのハンザ同盟都市であるグダニスクには、中世の雰囲気漂う町並みが広がっています。
ドゥーギ広場、ネプチューンの噴水、聖マリア教会、黄金の門、緑の門、王室礼拝堂、
モトワヴァ運河 、木造クレーン 、聖ヤン教会、アルトゥスの家。
これらの旧市街の町並みは、第二次世界大戦での激戦で9割以上が破壊されてしまいましたが、
戦後、市民らの熱意によって、廃墟から戦前の町並みが完全に復元されました。

街中のどこからも見渡せる高いレンガ造りの建物は、14世紀に建設された聖母マリア教会です。
レンガつくりのものとしては世界最大級で、美しいパイプオルガンや、からくり時計で有名です。

細長いことからその名前があるドゥーギ広場は、グダニスクの町のシンボルで、
ベネチアのサン・マルコ広場と並び賞されるほどに美しいといわれています。
広場の一角に建つ旧市庁舎は、現在グダ二スク歴史博物館となっており、
「赤の広間」と呼ばれる評議会室が、訪れた観光客を魅了します。
そしてネプチューンの噴水は、グダニスクの町の守護女神。
グダニスクっ子の待ち合わせ場所として人気です。

ドゥーギ広場の突き当たりには「緑の門」、そして「緑の門」を抜けるとモトゥワヴァ運河に出ます。

モトゥワヴァ運河の両側には、中世ハンザ同盟の時代を思わせる倉庫群が並んでおり、
内部は改装されてホテルや博物館などになっています。

港町グダニスクは、古くから諸外国との海洋貿易で栄えました。
運河沿いの三連に連なる倉庫群は、町の海洋博物館です。
ここでは古代から現代に至るまでの、町の貿易の歴史を知ることができます。
そして倉庫群の対岸には、中世の時代に建設された、高さ25メートルもの
巨大な木造クレーンがあり、この木造クレーンの内部も海洋博物館になっています。

旧市街西の三角屋根の建物は、中世から残る巨大な製粉所です。
1350年に造られ、二度の世界大戦の戦災を免れた中世ヨーロッパ最大規模のものです。
現在は内部が改装されて、近代的なショッピングセンターとなっています。

旧市街から少し足を伸ばすと……

第二次世界大戦勃発の地、ヴェステルプラッテ岬(Westerplatte)にでます。
1939年9月、ナチス・ドイツ軍がヴェステルプラッテのポーランド軍に侵攻、
ヨーロッパ中を戦場とする二度目の世界大戦の火花が切って落とされました。
現在この地には、平和を願う平和記念碑が建てられていて、
ナチス軍の急襲で破壊された廃墟が、現在、記念館として公開されています。

またグダニスク造船所(旧レーニン造船所)は、東欧民主化の原点となった場所です。
1980年、造船所の電気技師だったレフ・ヴァウェンサが労働組合「連帯」を結成、
ストライキを起こし、その十年後に、ポーランドは民主化、ヴァウェンサは大統領になりました。
このグダニスク造船所の入り口には、暴動で犠牲になった方々の追悼碑があり、
併設されている「連帯」記念館にて、当時の様子を詳しく知ることができます。

また市北部のオリヴァには、シトー修道会の教会があり、
毎年夏に開かれるオルガンリサイタルが観光客に人気です。

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ところでグダニスクは琥珀の名産地としても大変有名です。
バルト海沿岸地方(ポモージェ地方)は、世界的な琥珀の名産地で、
世界の琥珀生産量の8割以上を産出しています。
ポーランドの琥珀工芸は、最も古い民芸工芸のうちの一つです。
1477年、時のカジミエジュ4世によりグダニスクに琥珀職人養成のためのギルドが創設され、
以来、レベルの高い琥珀工芸が代々受け継がれていきました。

バルト海琥珀は、ポーランドのお土産として大変人気があります。
グダニスクの町には、いたるところに琥珀のアクセサリーを扱うお店があり、
日本では考えられないような安価で、良質の琥珀アクセサリーを買い求めることができます。

2006年6月には、ドゥーギ広場の一角に、ポーランド初の琥珀博物館が開館しました。
琥珀博物館には、世界各国の作家による琥珀アートが飾られており、
中でも重量2.5kgの世界最大の琥珀塊から作られた女性像は必見です。

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