月別アーカイブ: 10月, 2007

ポーランド・鉄道の旅

25 10月
2007年10月25日

ウォルシュティン (Wolsztyn) の蒸気機関車

ポーランド国鉄(PKP)では、現在でもポズナニ近郊区間で、蒸気機関車を運行しています。
中でも人気なのが、ポズナニ⇔ヴォルシュティン(Wolsztyn)間の約75kmを走る路線です。
旅行者に利用しやすい上、ヴォルシュティンでは、機関車に燃料の石炭を補充する様子や、
転車台で方向転換して整備格納庫へ機関車が収納される様子などが見学できるとあって、
観光客や鉄道マニアの間で、人気の路線となっています。

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さらに格納庫に隣接する ヴォルシュティンSL博物館 では、現役を退いたSL車両や、
旧式信号機、昔の駅員の制服、昔の駅の標識、昔の駅舎のジオラマなどが見られるほか、
実際に自ら運転席に座ってみることも可能!
至れり付くせりの内容とあって、シーズン中は予約が必要なほど込み合うそうです。
このヴォルシュティンSL博物館へは、ポズナニから日帰りでの訪問が十分可能です。

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写真はすべて、ポズナニで開催されたメッセに出展されていた車両です。
メッセでは、ヴォルシュティンまで行かずとも蒸気機関車の「移動博物館」を見ることができ、
非常に興味を引く内容でした。

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[写真]展示車両の中へ入ると…昔ながらの暖かみのある木製の椅子がならんでいました。
この車両は、レトロタイプの車両で、現在では使われていません。

ちなみにこのポズナニ⇔ヴォルシュティン路線も、蒸気機関車の一本後のダイヤは、
最新型のトラム型バスでの運行だったりします。蒸気機関車の運行は、どちらかというと、
ファンサービス的な意味合いが強いようです。

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ヨハネ・パウロ二世号

クラクフ-ヴァドヴィツェ間では、「ヨハネ・パウロ二世号」という特別列車が運行されています。
ヴァドヴィツェとはヨハネ・パウロ二世の生まれた町で、クラクフから西へ50kmほどのところです。

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「ヨハネ・パウロ二世号」は、20世紀ポーランドを代表する偉人であった、先代ローマ法王の、
故ヨハネ・パウロ二世をしのんで作られた特別車両です。車体はヴァチカンカラーの黄金色で、
側面に TOTUS TUUS の文字が刻まれています。トトゥス・トゥース -TOTUS TUUS-とは
「私のすべてはあなたのもの」という意味のラテン語で、ヨハネ・パウロ2世が生前に好んで
使ってた言葉です。車内には随所に液晶テレビモニターがあり、
生前のヨハネ・パウロ2世の映像をまとめた特集DVDが放映されています。

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「ヨハネ・パウロ二世号」クラクフ中央駅を出発し、ワギェヴニキ、カルヴァリアと
ヨハネ・パウロ2世ゆかりの地に停車して、約1時間後にヴァドヴィツェに到着します。
切符は一日有効ですので、ヴァドヴィツェに行く道中に、途中下車して、ワゲヴニキの
サンクタリウムや、ユネスコ世界遺産の カルヴァリア・ゼブジドフスカを訪問することができます。

地元の人の交通手段としてはもちろんのこと、世界中からのカトリック巡礼者が、
亡き法王をしのび、毎年この「ヨハネ・パウロ二世号」でヴァドヴィツェを訪問しています。

ポーランドのバル

19 10月
2007年10月19日

お腹がすいたとき、旅行者でも気軽に食事ができるのが、町のあちこちにある、バル(BAR)です。
ポーランドのバルは、飲み屋ではなく、ファーストフード以上ファミレス以下の軽食店のこと。
レストランというと、ヨーロッパでは、正装してコース料理を食べる店になってしまい、
お値段もかなり張ってしまいます。それがいやな人はこのバルに行くのがお勧めです。
値段の割りにおなか一杯食べられるので、旅行者のみならず地元の人にも大人気です。

バルにもいろいろあって、メインディッシュにポテトと飲み物のセットのファーストフ-ド系と、
お盆に単品メニューをいくつか載せる学生食堂風に大きく分かれます。

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ファーストフード系のバルのメニューの一番人気は、写真の「ザピエカンカ(Zapiekanka)」です。
半分に切ったフランスパンにチーズときのこを載せ、暖めてケチャップをかけたものです。
熱いチーズでおなか一杯になるのと、値段が一番安いのとで、老若男女を問わず人気です。

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一方ここ数年で、このザピエカンカをしのぐ勢いなのが、ドネル・ケバブ(Kebab)です。
ケバブは元々トルコや中東の料理ですが、トルコ系移民がヨーロッパに持ち込んだのがきっかけで、
いまやヨーロッパの各国で広く市民権を得ており、ポーランドも例外ではありません。
ポーランドにはトルコや中東の人は殆どいないのですが、肉のうまみがたっぷりのケバブは、
元々肉料理が大好きなポーランド人の間に、瞬く間に人気が浸透しました。
ザピエカンカは肉が全くないのに対し、ケバブは肉のうまみがたっぷりなのが、勝敗の別れ所でしょうか?

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定番のメニューは、ドネルケバブサンドとコーラのセットで、10~15zl(400円~600円)くらいです。

こちらはワルシャワのケバブ・マップ。
http://www.kebab.waw.pl/
クラクフでは、フロリアンスカ通りからグロツカ通りにかけてが、ケバブ屋が沢山軒を連ねるスポットです。

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一風変わっているのが、写真の「スパゲッティ・バー」です。
一見普通のファーストフード店なのですが、メインメニューは、ハンバーガーではなくて、スパゲッティ。
それに、ポテトやコーラが付いたセットメニューがあります。ポズナニでよく見かけました。

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ショウウィンドウの値段を見ると、スパゲッティ・ボロネーゼの小が、3.7zl=150円!これは安い!
ということで、早速中に入ったのですが、3.7zlは学生割引料金で、実際には4.1zl、
しかもポテトとコーラのセットにしたら、10.9zl=440円になってしまい、結局普通の値段でした。
(セットだと、スパゲッティは中サイズになり、値段が跳ね上がりました..)
学生の街ポズナニでは、このお店のように、学生割引を設定している店を多く見かけました。
このスパゲッティ・バー、今のところ、ポズナニ以外の町ではあまり見かけませんが、
値段の割りに食べ応えがあっておいしので、今後は増えてくるかも知れません。

カジミエジュ・ドルヌィ

07 10月
2007年10月7日

「カジミエジュ・ドルヌィ」は、人口5000人にも満たない小さな町です。
しかしそこには、毎年世界中から観光客が訪れます。
それもそのはず、なんと「ポーランドで一番美しい町」の呼び名があるからなんです。

カジミエジュ・ドルヌィの歴史は12世紀にさかのぼります。
もともとベネディクト修道会所属の小さな山間の集落でしたが、1181年、「正義王」と呼ばれた
ピャスト朝カジミェシュ2世から、クラクフのノルベルタネク修道院へ寄贈されました。
このとき寄贈者カジミエジュ二世の名にちなんで、「カジミエジュ」と命名されました。
「ドルヌィ」という形容詞は、クラクフのカジミエジュ地区と区別するために、
やや後の時代になってから、付け加えられたものです。

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[写真]カジミエジュ・ドルヌィの旧市街広場

1325年にはヴウァディワフ・ウォキィエテック王によって最初の教会が建設されました。
その後カジミエジュ三世によって、広場や通りからお城に至るまで、本格的な町の建設が始まり、
ヤゲウォ朝ヴワディスワフ2世の時代に「市」の特権が与えられました。
ヤゲウォ朝の時代には、ジグムント王の住処ともなり、その後17世紀にかけても
、ヴィスワ川を使ったグダニスク港への輸送の重要拠点とされ、町は大いに栄えました。
しかし、1656年スウェーデン軍の侵攻により町も城も壊滅され、さらには戦争により疫病が流行して、
町は完全に廃れてしまいました。こうしてカジミエジュの町の栄光の時代は終わりました。

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[写真]廃墟となったカジミエジュ・ドルヌィ城

時の王ソビエスキ三世は、アルメニア人やギリシャ人、ユダヤ人の商人に住民権をあたえるなどして、
商業を活性化させ復興を図ろうとしましたが、それもむなしく、町は再びスウェーデン軍の侵略にあい、
さらには経済面でも、ポーランドの麦の需要がヨーロッパで低下したことで、ヴィスワ川沿岸の
貿易都市としての存在価値が低下し、さらにはポーランド分割の影響で、商業都市としての地位も
失墜、こうしてカジミエジュは完全に発展への道を閉ざされてしまいました。

しかし幸か不幸か、19世紀からはルブリンやワルシャワ方面からのホリデースポットとして
人気になり、再び日の目を浴び始めました。その後第二次世界大戦でも再び破壊されましたが、
市民らの懸命な努力により復興されて、今日では観光が主要な財源をなす観光都市としての
位置づけがすっかり定着しています。

通常、町の広場は四方を建物で囲まれていますが、カジミエジュ・ドルヌィの中央広場は、
北側部分の一部に建物がありません。そのため、中央広場から町の教会とお城とが見渡せます。
その景色は大変すばらしく、まさに「ポーランドで一番美しい町」の名前にふさわしいものであり、
古今東西おおくの観光客に愛されて、また多くの画家によって描かれてきました。

バロック様式の建築の数々、とりわけ旧市街広場一角のカミェニツァ(Kamienica)は必見です。

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[写真]kamienica pod sw Mikolajem i Krzysztofem

1979年には、カジミエジュ・ドルヌィ一帯は、ランドスケープ公園*1に指定されました。
皆さんもぜひ訪れてみてください。ルブリンからバスで1時間ほどです。

*1:ランドスケープ公園
ポーランド独自の評価方式で国立公園に次ぐ重要度とされている森林や平原などの地域

ルブリン

03 10月
2007年10月3日

ルブリンは千年以上の歴史を持つ町です。

バルト海と黒海とを結ぶ交易路上にあることから、
古くからロシアやスカンジナビア諸国との交易で栄えました。
とりわけ中世ポーランドのヤゲウォ王朝の時代には、
ポーランド史上の重大な出来事が、ここルブリンの町で起こりました。

ヤゲウォ朝時代は「黄金の世紀」とよばれ、ポーランドがもっとも繁栄を極めた時代です。
1569年にルブリンにてポーランドとリトアニアの連合が調印され(ルブリンの合同)、
これによりポーランド・リトアニア連合国が誕生したのです。

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[写真]ルブリン城

このルブリンの合同により、ポーランド・リトアニア連合国は、東はドニエプル川のはるか東、
北はバルト海、南はバルカン半島から黒海までと、広大な国土を有する東欧の大国になりました。
また商業においてもライ麦や木材の輸出により「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれるまでに繁栄しました。
しかし18世紀のポーランド分割でロシア領となると町は荒廃し、かつての栄光は薄れていきました。

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[写真]ルブリン旧市街

ルブリン旧市街には、ルブリン城、クラクフ門などの見所があります。旧市街の建物は、
一部やや色が薄れていたり、レンガが崩れ落ちている場所があったりしますが、
それがまた東部地域独特の雰囲気をかもし出しています。
また学問の都でもあります。ヨハネ・パウロ二世ゆかりのルブリン・カトリック大学や、
ノーベル賞を二度受賞したことで知られるマリ・キュリーの名を冠したマリ・キュリー大学があります。

ルブリンは、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した町のひとつです。
ルブリン南東5kmのマイダネクに、ナチス軍によって絶滅強制収容所が設立され、
ルブリンをはじめクラクフなどマウォポルスカ地方のユダヤ人が多数犠牲になりました。

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[写真]マイダネク強制絶滅収容所

このマイダネク強制収容所は、クラクフ郊外のアウシュビッツ収容所とならび、
人類の負の歴史を今に伝える、とても重要な場所です。

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[写真]焼却炉跡

マイダネク強制収容所は、アウシュビッツより先に建設されていること、
遺体焼却炉が完全な形で残っていることなどから、歴史研究家らの間では
アウシュビッツ収容所以上に重要視されている場所です。570 haもの広大な敷地に、
監視塔、ガス室跡、犠牲者の遺品を集めた展示バラックなどが並んでいます。

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巨大な記念碑が「二度と戦争が起こることのないように」と訪問者に呼びかけています。

2007年2月には、ルブリンに、戦後初めて、ユダヤ教の学校「イェシヴァが再建されました。
さらにはハシディズム博物館の建設の計画もあり、東欧系ユダヤ人の関心を集めています。
ルブリンにハシディズム博物館ができれば、ヨーロッパ初となります。

ルブリンへはワルシャワから電車で3時間、クラクフからバスで6時間です。

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