月別アーカイブ: 11月, 2007

映画「戦場のピアニスト」の世界

28 11月
2007年11月28日

「戦場のピアニスト」は、ポーランド出身のピアニスト、ヴワディスワフ・シュピルマンの自叙伝です。2002年にロマン・ポランスキ監督によって映画化されると、世界中から高い評価をうけました。
「シンドラーのリスト」とともに、第二次世界大戦中のポーランドを描いた作品として有名です。

ワルシャワ・ムラヌフ地区に、この「戦場のピアニスト」の世界を訪ねてみましょう。

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第二次世界対戦が始まると、ヨーロッパのユダヤ人は、ゲットーと呼ばれるユダヤ人居住地区に
強制移住させられました。ワルシャワにおいても、ムラフフ地区一帯がゲットーに指定され、
ユダヤ人であったシュピルマン一家は、ゲットーへと移住させられました。

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[写真]ワルシャワゲットー;Jan Pawel II 通り、文化科学宮殿など、
現在のワルシャワ中心部のかなりの部分が元ゲットーであったことがわかります。

ゲットーが設立された当初、ゲットー内には30万人以上のユダヤ人が住んでいました。
ゲットーの通りには路面電車が走り、喫茶店や映画館もありました。
シュピルマンも、ゲットーの内部にあったレストランでピアノの演奏をして生計を立てていました。
飢えや衛生状態の悪化からゲットーの人口はどんどん減っていきましたが、それでも
ゲットーのユダヤ人は、死の恐怖におびえながらも、文化的な暮らしを保とうとしていました。

1942年になると、ゲットーから強制収容所へのユダヤ人の移送が始まります。
シュピルマンの一家も、ゲットーからウムシュラークプラッツへと追い立てられ 、収容所行き列車に
乗る列にならばされました。列車の行く先は、トレブリンカ絶滅収容所のガス室、つまり
ウムシュラークプラッツへ行ったら最後、もはや生きて帰れないことを意味していました。

その時運良く、ユダヤ人自衛警察となっていた友人ヘス がヴワデック・シュピルマンの姿を見つけ、彼を列から引きずり出しました。こうしてヘスに助けられ、トレブリンカ行きを逃れたシュピルマンは 、
その後ゲットーからも脱走し戦争を生き延びることができました。
しかし彼の家族はそのまま列車でトレブリンカ収容所に運ばれ、ガス室の露と消えました。

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[写真] ウムシュラークプラッツ;もともと貨物列車用の荷物詰め替え場所でしたが、
戦時中は、ここが絶滅収容所行き列車の待合室となりました。

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ゲットー蜂起記念碑は、ムラヌフ地区の中心部、ザメンホフ通りから小道を入ったところにあります。

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[写真]ゲットー蜂起記念碑(ワルシャワ、ザメンホフ通り)

1943年2月、シュピルマンはゲットーでの生活に見切りを付け、ゲットーから脱出し、
友人を頼って隠れ家を転々とする生活に入りました。その二ヵ月後にゲットー蜂起が起こり、
シュピルマンがゲットーを脱出するのを手助けしてくれた友人のマヨレクほか、
ゲットーに残っていた同胞は、悲惨な最後を遂げました。

ゲットーからのユダヤ人の移送が開始された当初、ゲットーのユダヤ人の抵抗組織勢力は、
ドイツ人に従い、ユダヤ人のゲットーからの移送に合意することを決定していました。これは、
ユダヤ人の移送は、「農作業に従事するための東方への移民」であると説明されていたからです。しかし戦況が進むにつれ、移送先が絶滅収容所であり、移送は死を意味することを知った
ユダヤ人は、これ以上列車に乗ることを拒み、手に手に武器を持って武装蜂起したのです。
しかし圧倒的な戦力を誇るナチス軍を前に戦いに敗れ、命を落としました。

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[写真]ワルシャワ市民蜂起英雄の碑

こちらはクラシンスキ広場の「ワルシャワ市民蜂起英雄の碑」です。
1988年、ワルシャワ市民蜂起45周年を記念して、この蜂起記念碑が建てられました。
1944年8月1日、ワルシャワ市民は市街各地で武器を手に一斉蜂起 しました。
最初優勢だったのは蜂起軍の方でしたが、時間が経つにつれ蜂起軍は次第に力を失っていき、
1944年10月10月12日、クラシンスキ広場にて、蜂起軍は武器を捨て降伏 しました。

ワルシャワ蜂起でポーランド軍の敗戦が決定的となり、それまでの隠れ家生活も食料が底を
ついて、シュピルマンはぎりぎりの生活を送ります。そんな折にドイツ軍の将校にみつかってしまい、
あわやこれで最後かというときに、ピアノの演奏をしたことで九死に一生を得たのでした。

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今日のムラヌフ地区は、質素な住宅街で、当時の戦火の傷跡は一見感じられませんが、
しかし少し歩くと、あちらこちらに戦没者の追悼碑があるのがよくわかります。
大勢の観光客でにぎわう旧市街から、5分ほど歩いたところで、こちらは観光客はまばらです。
かわって、花をもったイスラエルからの修学旅行生を沢山見かけます。

映画を見た人も、まだこれからの人も、ぜひ一度、ワルシャワ・ムラヌフ地区を訪れてみてください。
ポーランドを訪問し、激動のヨーロッパ戦線の舞台となった街を実際に自分の足で歩くことで、
当時のヨーロッパの歴史や時代背景に対する理解が、より一層深まるのではと思います。

『シンドラーのリスト』 の世界

16 11月
2007年11月16日

ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーは、自分の財産と引き換えに、
1200人のユダヤ人をナチス・ドイツ軍の魔の手から救ったとされる、実在の人物です。
スピルバーグ監督によって映画『シンドラーのリスト』が公開されると、世界中で有名となりました。

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[写真] シンドラーの工場(クラクフ、Lipowa 通り 4番)

クラクフの旧市街からヴィスワ川を渡った対岸にあるポドグジェ地区には、映画の舞台となった
シンドラーの工場が現在まで残されており、映画のシーンにも登場した入り口の階段や、
シンドラーの執務室などを見学することができます。

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1939年、ドイツ人実業家のシンドラーは、ナチス・ドイツ占領下のクラクフにやってきました。
クラクフ旧市街、ストラシェフスキエゴ通り9番のアパートに住まいをかり、新しい事業を
はじめようとしていました。おりしも第二次世界大戦で特需景気にわいている時代でした。

その当時、ユダヤ人はゲットーと呼ばれるユダヤ人居住区に強制移動させられていました。
クラクフでも、1941年にクラクフ・ゲットーが設立されると、職をもたないユダヤ人成人男性は
郊外の強制収容所行きとなり、職をもったユダヤ人だけが家族とともにクラクフ・ゲットーに
とどまることを許されました。
そこでシンドラーは、クラクフ・ゲットーのすぐ近くの場所に、ほうろう容器工場を開き、
ユダヤ人を低賃金で雇って、事業を成功させました。
シンドラーの工場のユダヤ人労働者らは、低賃金であっても、仕事を与えられたことで
ゲットーにとどまることができたため、シンドラーの工場で働けることを大変よろこびました。

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[写真] クラクフゲットーの壁(クラクフ、Lwowska 通り 29番)

しかし1943年クラクフ・ゲットーが解体されることがきまりました。
もともとゲットーは、都市部のユダヤ人を一箇所に集めて、郊外の強制収容所に移送するのを
容易にするために設けられた一過性の設備であり、いずれ解体することになっていました。
クラクフでも、かつてゲットーに住んでいたユダヤ人の多くが、すでに強制収容所に移送されて、
ゲットーをおく必要がなくなったため、解体されることとなり、まだゲットーに残っていたユダヤ人は、
みなクラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ連行されることになってしまいました。

そこでシンドラーは、シンドラーの工場をプワシュフ収容所の所属とし、
敷地内に私設収容所を設置して、ユダヤ人労働者を強制労働収容所へ送ることなく、
引き続きシンドラーの工場にとどめました。

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[写真]プワシュフ収容所跡
収容所の施設は戦時中に取り壊されたため、現在は記念碑が残るのみです。

このプワシュフ収容所は、労働力搾取を目的とした労働収容所でした。
そのためクラクフ市街地のすぐそばに設けられました。
絶滅収容所でないため、ガス室などの絶滅施設はありませんでしたが、それでも度重なる
虐待行為や、日々の重労働から命を落とす人が多く、囚人は死と隣り合わせの毎日でした。01_06

そんな中シンドラーの工場の労働者は、このプワシュフ収容所に実際に収容される
ことなく、シンドラーの工場内の私設収容所にかくまわれいて、難を逃れたのです。

しかしさらに悪いことにプワシュフ労働収容所の解体も決まり、クラクフのユダヤ人は
すべて、絶滅収容所として悪名高いアウシュビッツへ送られることとなりました。

そこでシンドラーは、自分の工場で働くユダヤ人労働者を、生まれ故郷チェコのブリンリッツへ
連れて行くことを決断します 。彼はこのとき『シンドラーのリスト』を作成、このリストに載った
1200人余りの人が、シンドラーとともチェコのブリンリッツへ旅立ちました。

こうしてシンドラーは、自分の財産と引き換えに、1200人ものユダヤ人の命を救いました。
その勇気ある行動から、イスラエル政府から「正義の人」として表彰されており、
今日もユダヤ人をはじめ世界中の人々が、当人をしたってこのシンドラーの工場を訪れています。

ポズナニの企業フェア

08 11月
2007年11月8日

ポーランド北西部の町ポズナニは、今も昔も交通の要所です。
ヴァルタ川に河川港をもち、また陸上交通では鉄道のジャンクション地点であるため
ワルシャワ、ヴロツワフへ3時間、隣国ドイツのベルリンへもたった3時間の好立地にあります。
この立地背景から、古くはハンザ同盟として栄え、近年も国際商業都市の役割をになっています。

そう、ポズナニといえば、いまや「国際展示場のある町」としてつとに有名です。
中央駅から程近いこの巨大なガラス張りの国際展示場では、毎年、国際規模な展示会や
企業フェアなどが多数開催され、国内外から多数の訪問者が訪れる場所となっています。

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実は私も昨年このフェアに参加してきました。写真はそのときの様子です。

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私が参加したのは、「Tour Salon 2006」という旅行関係業者の見本市です。

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ポーランド人に外国旅行の魅力を紹介するコーナーでは、他のヨーロッパ各国のほか、
タイ、インドネシア、チュニジア、など、ポーランド人に人気のリゾート地が紹介されていました。
日本の企業フェアと同様、だだっ広い会場に沢山のブースが並んでいています。
主に欧州内の旅行を扱う旅行代理店や航空会社の出展が目立ったほか、
政府観光局や大使館みずから出展している国もありました。

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海外旅行が好きで物見がてらにきている人から、真剣に起業を考えている人まで、
沢山の人が集まって大賑わい、あちらこちらから熱い商談が聞こえてきました。

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隣接する会場では、ホテル・レストラン事業の見本市 が同時開催されていました。
こちらのサロンでは、ベッド、家具、カーテン、照明器具、バスローブ、鍵、防犯カメラなど、
ホテル開設に関係する 様々な業者の出展がありました。

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ポーランドでは、90年代の体制変換、そして2004年5月のEU加盟を経て、
経済活動の自由化が著しく、とりわけ個人の起業家が急激に増加しています。
実際2004年の 起業活動指数の国際比較 によると、ポーランドの起業活動指数は8.8と、
ニュージーランド(14.7)、アイスランド(13.6)、オーストラリア(13.4)、アメリカ(11.3)、
カナダ(8.9)に次いで、世界第6位。これは旧共産主義東欧圏の中ではダントツで首位で、
ヨーロッパ全体でも、アイスランドについで第2位、もちろん日本をも上回る驚異的な数字です。

実はポーランドでは、会社を作るのは非常に簡単で、会計事務所に一切合切を頼めば、
誰でも3・4日で簡単に新会社を設立できます。会計や法律関係の細かいことは、
会計事務所に外注すればOKで、難しい知識は一切必要ありません。
だから自前の会社を経営したいと思えば、明日にでも起業できるのです。
一方で周辺諸国にとってもポーランドはますます魅力的な投資先になってきています。
そんなわけで、このような国際展示会や企業フェアが開催されるたびに、
起業して一発当てようというアンビションのある起業家や、ポーランドの経済成長を
評価し積極的に投資活動を行いたいという投資家で溢れかえり、大いに盛り上がります。

折りしも先月下旬の下院選挙では、自由経済推進派の「市民プラットフォーム(PO)」
が41.5%を獲得し第一党となり、これまでの保守右派の政権与党「法と正義(PiS)」が
32.1%で敗れたことで、政権交代は確実になりました。新首相となることが確実な
POのトゥスク党首は、公約に一律15%のフラットタックス導入を掲げています。
もしそうなれば、高所得者への大幅減税になり、これでまたポーランドの経済活動が
ますます一層発展するとの期待を持っています。

ペインティングアートの村

02 11月
2007年11月2日

ポーランド南東部、クラクフから車で2時間ほどのところにある小さな村、ザリピエ村は、
民家の外壁や内壁にきれいなペインティング・アートが施されたとてもきれいな村です。

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ザリピエ村のペインティングアートは、この村に住んでいた著名な女流画家、
フェリツァ・ツリウォーヴァ(1904-1974)が始め、その後村の女性らの間に広がっていきました。
現在でも村の女性の多くがペインティングに興味を持ち、ノンプロのアート作家として活躍しています。
またザリピエ村の女性が他村の男性と結婚することで嫁いだ先でもアート製作が広まり、
いまや近隣のいくつかの村でも、ザリピエ村風のペインティングアートが見られるのだそうです。

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地元の人は外国人なれしており、気軽に写真を撮らせてくれます。ただ撮影OKなのは
家の外壁や井戸、倉庫など屋外部分だけで、原則として民家の中には入れません。
ザリピエ村の民家は室内の暖炉や内壁・天井などのペインティングもとてもきれなので、
本当は室内も是非見たいところですが…… 残念。

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ツリウォーヴァの生家は、彼女の死後にタルヌフ地方博物館に買い取られ、
ザリピエ村のペインティングを紹介するタルヌフ地方博物館の分館になっています。
地元の小学生のグループが遠足で訪れたり、外国からも沢山の観光客がきています。

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この博物館内部のペインティングは、すべてフェリツァ・ツリウォーヴァ本人のものによるものです。
また暖炉や内壁など民家の室内ペインティングが見られる唯一の場所でもあります。
ツリウォーヴァのお孫さんにあたる女性が、この博物館の管理・ガイドをしています。

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ザリピエ村では、このツリウォーヴァの生家のほかに、村の文化センターである
「女流画家の家-Dom Malarek(女流画家の家)」をぜひ訪れてみてください。

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文化センターでは、ペインティングコンテストや、ペインティング体験教室などが開催されています。
とりわけ毎年5・6月の聖体節の前は、このペインティングコンテストの前とあって、
村の女性が実際に屋外でペインティングしている様子をみることができます。

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このザリピエ村への行き方ですが、クラクフから車での日帰りが便利です。
ヨーロッパ国際道路のE40号でクラクフからタルヌフへ向かい、そこから北上するルートと、
県道79号をサンドミエジュ方面へむかい、オパトヴィエツで右にそれて川を渡るコースがあります。
ちなみにポーランドにはここのほかにもう一箇所ザリピエという名前の村がありますので、
ご旅行の際には、混同しないようにお気をつけください。

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ところでこのザリピエ村には旅行の日程の都合どうしてもいかれないという人にお勧めの、
とってお気の場所があります。その名も「U Zalipianek-ザリピエ村の女性のお家」というカフェ。
中央広場から西へ出るシェフスカ通りと、緑地帯(プランティ)の交わる場所にあります。

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店内はザリピエ村風のペインティングで飾られていて、クラクフにいながらにして、
ザリピエ村の雰囲気を味わうことができるスポットです。
夏はプランティに面してずらっとオープンカフェになり、とてもきれいです。

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