Paczkow  パチクフ

03 6月
2011年6月3日

さて、前回のオトゥムフフから更に西へ進みますとパチクフという町に出ます。
この町の有名な教会にまず足を運んでみましょう。中央ヨーロッパの巨大な要塞建築で名を馳せている教会です。リネックから歩いて約1分ぐらいの高台に教会がそびえたっています。一風変わった外観を眺めていますと、小学6年生ぐらいの男の子が近づいてきました。何でも学校の歴史クラブに所属していて、この教会の歴史を話したいということでしたので彼の話を聞くことに。(ちなみに、この町では歴史クラブの子供たちが観光案内をしてお小遣い稼ぎをしているとどこかで聞きました。案内を聞いたら、ちょっとした小銭を渡してあげましょう)
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パチフクの教会
こちらの教会は、それ以前にその場所に存在していた木造の神殿を解体した後、1350年に建築が始められたそうです。しかしですね、この教会、ちょっと見ていただくと分かるのですが形が普通の教会じゃありません。バロック、ゴシックごちゃまぜ建築なんて建物は今までいろいろ見てきましたが、ここまでハーモニーを醸し出していない(!)建築物も珍しい。なんでも東方民族の襲撃に備え要塞の役目を果たす単に改築されたためだそうです。しかし、皮肉なものでこの町の破壊が徹底的に行なわれたのはどちらかというとフス戦争時だったようですが・・・。
さて、要塞の役目を果たすため、なんとこの教会の中には井戸もありました。敵に周囲を囲まれても水の確保をしておくためにわざわざ建物の中に囲い込んだそうです。井戸が中にある教会は初めて見ました。ちなみにこちら、『タタール人の井戸』とよばれています。
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こちらがその井戸
どうしてそんな名称がついたかといいますと昔、この地に12人の美しい娘をもっている地主がいました。そして、この彼はすばらしい馬舎も持っていました。この時代、馬というのはちょっとした財産でしたので彼のように美しい白い馬を何頭も持っているというのはかなりの資産家だったようです。さて、その12人のうちの一人の娘に恋をしてしまったタタール人がいました。また、彼女のほうも彼に好意を持ったのですが、タタール式のように彼女をさらうのではなく、ポーランド式に彼女の父親に結婚の許しを得てほしいと頼んだそうです。恋する彼女のためならと、このタタール人、ポーランド人の彼女の父親の前に膝をつき結婚の承諾を得ようとしましたが『お前なんぞ家来になっても婿にはならんわい!』と却下されたため、結局タタール式に彼女をかっさらうことに。そして、馬も数等(勝手に)頂いて、前回紹介しました町、オトゥムフフの方面に逃げるのですがその彼女の美貌、且つ連れている馬の美しさに人々が気がつき、結局捕まってしまいます。このタタール人は再び、彼女の父親の前につれだされ、この井戸に放り込まれてしまいました。
それ以降、この井戸は若い美しい女性が中を覗き込むとタタール人が昔の恋を思い出して水が泡立ち、またひげを生やした父親タイプの人が中を覗き込むと水が濁ったそうです。で、性懲りもなく私も覗き込んでみようと思いましたが今現在、この井戸の水は干からびておりました。
さて、教会を出て、この町のちょっと変わった観光名所にでかけてみました。
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人家のようです。で、誰が住んでいたかといいますと『処刑人』。今現在ある家は数年前に改装されたものですが、18世紀には実際ここに処刑人とその家族が住んでいました。ちなみに、よくよく見ると、城門の外にこの家は位置しています。この職業の収入はよかったと聞いたことがありますが、やはり忌み嫌われる生業だったようです。また、町の人のリンチにあわないように、パチクフの人の処刑は受け持たなかったそうです。
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この町にはいまでも城壁がそのまま残されていますが、観光客以外の人にはその壁は毎日の生活風景と化しているようです。
この町は外国人向けの観光地としては紹介されにくい場所ですが、時間のある方、古きヨーロッパを垣間見てみたいという方はのんびりと足を向けてみてください。

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