(お孫さんのエルネスト氏の講演を聴いて)
メキシコへの日本人移民の歴史も、世界へ移民として渡って行った人々の歴史同様、そこには、人々の壮大な人生ドラマがあると思う。
先輩諸氏の人生物語を聞くと、多くを学び、感動させられる。
メキシコに、時には不満を言いながらも、それでも、メキシコを第二の故郷とし、私の人生の半分を、メキシコの地に生きてきた、そして、また、いつかはこの地に消えてゆく人生である。
それ故に、この地に何かを残していった大先輩の人生を羨ましく思い、感動する。
松本ファミリーは、メキシコ移民の中でも、もっとも成功なさったファミリーであるだろう。日系社会でも、松本ファミリーのその名を知らない人はいない。花卉栽培、花屋としても、メキシコ社会に名を残している。
それは、庭師という素晴らしい技術、職人魂をもった松本辰五郎氏1世の方の功績であり、その後の家族の方たちの努力であるのだろうと思う。
松本辰五郎氏は、江戸の末、つまり、明治以前の生まれという方だそうだ。
講演をしてくださったお孫さんのエルネスト氏は、84歳という年齢だが、その年齢にはとても見えないその記憶力といい、かくしゃくと立ったまま、1時間以上の講演を続けたその元気さにも、驚きました。
松本辰五郎氏が、メキシコの地に最初にやってきたのは、明治29年のかの榎本メキシコ移民以前の明治22年と。歴史書では、榎本移民をメキシコの最初の移民として扱っているが、それ以前に、メキシコにやってきたわけである。
彼は、メキシコに定住する前に、庭師として、ペルー、メキシコのイダルゴ州やサンフランシスコで日本庭園を作り(1888年~1896年の間)、今もそれは残っているのだそうだ。
彼は、メキシコへ来るにあたって、多くの植木を船に乗せ、サンフランシスコでそれを受け取るために待つが、その船は、予定通りに到着せず、3ヶ月後、受け取るが、すでに全て枯れていたという。それで、彼は財産の多くを失う事になると。
だが、その時、サンフランシスコの金門公園内の日本庭園を作るという仕事を得たと。
メキシコに、1896年8月 定住で来た彼は、庭師として、多くの造園をし、また植林をし、大統領官・私邸など政府の関係の仕事もし、チャプルテぺックや、メキシコ市の南のオブレゴン公園の植林もしたと。
そして、今、大木となった古木は、彼の植林したものであるようだ。
オブレゴン公園に何年か前まで、イチョウの木が一本あった。多分、この木も彼が植えたものであったようだ。
また、メキシコ市の春を飾るジャカランダは、ペルーへ行った時に松本氏がメキシコに持ち込み、メキシコの地に伝えたものと、また、紫のブーゲンビリアもまた、松本氏によって植林されたと。
そんな話を聞いて、松本辰五郎氏は、91歳でメキシコの土となっても、彼は、毎年メキシコの春を人々に楽しませる物をメキシコの地に残したのだと思った。