チャパス州の旅は魅力がいっぱいである。 チャパス州はメキシコの中でももっとも雨量の多いところで、メキシコのイメージ、砂漠とサボテンとは正反対に緑豊かな密林ジャングルや 川や滝などの美しい自然がいっぱいであり、また、そこに住む人々は、先スペイン期時代に、マヤ文明を築いた人々の子孫であり、 彼らが作る民芸品、伝統的な織物など旅人の興味をそそるものがいっぱいである。
そして、その地は、なんと言っても、マヤ文明の最も高い栄華を誇った文化を持ったといわれるマヤ古典期時代の多くの都が、勃興、繁栄、 そして崩壊して行った地である。 当時の栄華を誇った都は、チャパスの密林の中に崩れ埋もれた。 そして、今は遺跡となり、そこを訪ねる人々の都の栄光への、文化への、歴史への、興味は尽きない。
チャパス州でもっとも多くの観光客の行く遺跡はなんと言ってもパレンケ遺跡である。 だが、パレンケ遺跡まで来て、もう一日旅の余裕があったなら、是非ヤシチラン遺跡とボナンパック遺跡へも足を延ばすべきであろう。 十年ほど前までは、このヤシチラン遺跡やボナンパック遺跡へ行くのには、セスナ機で行く方法しかなかった。 つまり、アクセスの道がなかったのだ。 だが、今はパレンケ村から、ヤシチラン遺跡&ボナンパック遺跡一日ツアーで気軽に行けるようになった。
さて、そのヤシチラン遺跡であるが、メキシコのマヤ遺跡の中でも最も多くの石碑が見つかっている遺跡でもあり、 その石碑に書かれたマヤの象形文字も解読が進んで、ヤシチランの王家の歴史も分かりつつあり、興味深い。
メキシコシティの国立人類学博物館マヤ室にその沢山の石碑の結構な数が展示されているので、遺跡に行く前、または、後に是非、博物館も 訪れてみるべきだろう。

写真の説明:国立博物館 マヤ室にあるヤシチランの石彫の一つ。最も綺麗な石彫と言われているように、大変彫刻が繊細に描かれている。 実はこれは物語風に描かれていて、3つの石彫がセットになっているのだが、その2つは残念な事にメキシコにはない、大英博物館にある。 日付は724年2月8日 ジャガーの盾Ⅱ世とその正妻が描かれている。女性の頬に自己犠牲の血が滴る。
パレンケ村から、車で、約2時間で、グアテマラとの国境になるウシマシンタ川の港、コロサルに着く、そこから、モータボートに乗り換えていく。 ヤシチランは、グアテマラとの国境になるウシマシンタ川を挟んで、メキシコ側の川の淵の遺跡である。 今もって、この密林の中への遺跡への直接の道路でのアクセスがないわけである。

写真の説明:コロサルのウシマシンタ川の港。ここからグアテマラへも。向こう岸はグアテマラ。
このウシマシンタ川は、このまったくの密林ジャングルに高い文明を持つ都が多く生まれた原動力となったと言える。 何故なら、マヤの古典期の都の多くは、このウシマシンタ川の流域に生まれていったのだ。 それは、水の供給という事と、この密林ジャングルでも川を通しての商業網の成立だろう。
ヤシチランもその例外ではないのだ。

写真の説明:この舟で、トウモロコシの穀物もグアテマラに輸出すると。
さて、モーターボートで、ウシマシンタ川の両側の、つまり、グアテマラとメキシコの両方の密林を眺めながら、下流に向かって約45分進んで行くと、 一つだけ岸辺に人間の手で作られた物があった!それが、ヤシチラン遺跡への入り口の木で作られた階段である。 だが、ほとんど遺跡は密林の木々に覆われてて、見えない。

写真の説明:ヤシチラン遺跡へのウシマシンタ川の港
入り口から、看板を見ながら、しばらく密林に作られた道を進んで行くと、まだまだ埋もれたような遺跡の建造物が目に付き、 そして、迷宮と名づけられた19号建造物のなんか暗い迷路を抜けると、広場を囲むように、多くの建造物のある都の中心部グラン プラサにでる。

写真の説明:中心広場。 グラン プラサ
さて、これから、結構せっせと見学しないと、またモーターボートの出る2時間後に間に合わない。 自然の丘を利用して作られた階段で上へ、上へと登って、最も重要な保存のよい33号建造物、そして、またその上の大アクロポリス。 ここまで登るとグラン プラサから90mも上に上った事になる。

写真の説明:33号建造物への階段とその階段に置かれた石碑

写真の説明:33号建造物、屋根飾りや彫刻もよく残っている。
ホエザルが、姿を見せずとも、しきりと、密林ジャングルの何処かで、吠えてみせる。
遺跡の中の木々も最低限に必要意外は切らないという方針らしく、今は密林の木々に覆われた廃墟の都だが、 当時は、やはり密林の中に、桃源郷のように存在した都であったのだろうか?
いやいや、当時、今同様に人々や支配者は、決してノホホンと平和でいられた訳ではなさそうだ。 都の繁栄を維持するために、他国と戦争をする必要があったらしい、そして、他国の捕虜を多く捕られてくる必要があった、 そして神に捕虜を捧げて祈る必要があった。

写真の説明:国立人類学博物館 マヤ室のヤシチランの石彫の部分。戦争捕虜がヤシチラン王、鳥ジャガーⅣ世の足元に描かれている。 575年11月9日の日付。
支配者も、いい想いだけしていればいい訳ではなかったらしい、自己犠牲もして自分の血も神様に差し上げなければならなかった。
さてさて、遺跡は、過去への色んな想像を描きたててくれる。 マヤ文明への完全な謎解きを、いつの日か、考古学者達はしてくれるのだろうか? あの複雑なマヤ象形文字の解読も大方できたし。

写真の説明:国立人類学博物館 マヤ室のヤシチランの石彫。マヤ象形文字。 この象形文字が数字を表す、マヤ長期カレンダーで紀元前3114年8月13日を起点として計算される。 日付は、526年2月11日を表す。