山へのルートと魅惑の町 その2


前回は自然の魅惑について、魅惑の町からのレポートでした。
今回は、歴史について。

メキシコの世界遺産は、歴史的コロニアルの街、自然、そして、遺跡というものが多い。
「山へのルート」名づけられた観光ルートの魅惑の町は、やはり植民地時代に作られたコロニアル風の街であるのだ。
コロニアル時代に山の中に何故街が作られ栄えたか?
それは、スペインの侵略者達がもっとも欲しがったものがあったから、そう、つまり銀の鉱山の町として、栄えたという事である。

ここ、Real del Monte とHuasca de Ocampoも山の中にある昔の鉱山の町である。

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そう、昔のである。
実は、昔といえども、レアル デ モンテの鉱山では、2000年までわずかに掘っていたそうだが、今その鉱山跡は、鉱山博物館となっている。

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また、コロニアル鉱山都市やその周りには、きっとと言っていいほど、植民地時代、その後、独立の後でさえも続いた荘園館の跡がある。
それは、今は、ホテルであったりする所も多いが、また、廃墟であったり、それもまた歴史を語る博物館でもあったりする。

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写真説明 :サンタ マリア レグラ荘園館跡、ホテルとして使われている部分
その他は、広い廃墟の博物館

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写真説明 :サンタ マリア レグラ荘園館跡

荘園跡にしても、鉱山跡にしても、それは、支配する者の栄華と、奴隷や労働者として、厳しい労働の提供者であった人々の血と涙のメキシコの歴史の一面を語りかける。

レアル デル モンテの観光ポイントに取り上げられているその一つに、イギリス墓地とある。
「何で墓地なんか、見に行きたいのだ?なんで観光ポイントなんだ!?」とは、娘の言い草。

このレアル デル モンテの鉱山は、最初植民地時代には、もちろんスペインの、そして、その後は、イギリス人の、そしてその後はアメリカ人の鉱山主によって発掘がされたと。
メキシコ人は、ずーと労働者かあ!?と言いたくなるけど。。。。。

実際、鉱山博物館を案内してくれた博物館のガイドは、2000年、閉山するまでの鉱夫であったと、その労働賃金は、一日わずか100ペソ(1000円相当)程度であったと。

鉱山での危険、高山病でなくって鉱山病(肺をやられるとの事)の病などにもかかわらず、
人々は働かざるをいない、生活のために。人々の辛さを、また、歴史の過酷さを思う。
荘園館跡に、植民地時代、鉱山病になってしまった人は、一つの部屋に押し入れられたという。その狭い部屋跡をみて、これって、牢獄並みだと思った。
いや、実際、当時植民地時代など、病気になった者は、やっかいなだけ、早くあの世に行ってくれと支配者達は思ったくらいだろう。

イギリス墓地も、娘の抗議があったが、行ってみた。
鉱山の仕事で移民したイギリス人であったろうが、このメキシコの山の地で死を迎えても、
ふるさとイギリスへの望郷の思いで、墓地は皆、祖国イギリスの方に向けて作られていると。
なんか案内によると、唯一人を除いては、だそうだ。

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労働者として働いた人にも、支配する立場にいた人にも、それぞれにその人の人生の思いがあったのだろう。

この地区の、食べ物の名物は、イギリス人達が伝えたパナーダ。
それは小麦粉で作った中に色んな物をいれて焼いたおやつ風パン。

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写真説明 :鉱山博物館の展示品、イギリス人によってこのオーブンでパナーダが焼かれた。

過去にやって来たイギリス人の子孫が、今なおいるのか?いないのか?
いたとしても、長い年月の間に、皆メキシコの人となっているかもしれない?
パナーダもメキシコのこの地の名物になっているように。

そう、メキシコ人は、過去の祖先にいろんな血を持っている人々である故に。
それがまたメキシコの歴史でもあるといえるかもしれない。

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